明治二十一年(一八八八)四月市制町村制が公布され、翌年四月一日から施行されることになった。試行錯誤と紆余曲折をへて、明治の地方制度はここに完成した。そしてこの年二月発布された大日本帝国憲法とあいまって、天皇制国家確立の強力な礎となった。
施行に先立ち、国家の要請する行政負担、財政負担にたえ得る町村を創り出すため、全国的に大規模な町村合併が行われた。合併は、地勢や人情風俗などを考慮することがうたわれ、明治十七年時の行政区域を母胎にしてすすめられた。この時北茨城市域には、南中郷村(旧村名 小野矢指、日棚、下桜井、粟野、松井、石岡、上桜井、足洗)、北中郷村(同 豊田、木皿、磯原、上相田、大塚、内野)、華川村(同 下相田、下小津田、中妻、上小津田、臼場、小豆畑、車、花園)、関南村(同 神岡上、仁井田、神岡下、関本下)、関本村(同 関本中、山小屋、福田、才丸、関本上、八反、山小川)、大津町、平潟町など、二町五か村が成立した。この時旧村名は大字として残された。
この制度のもとでは、地租あるいは直接国税二円以上納める男子は公民とされ、町村会議員の選挙や町政、村政に参与することができた。町村会議員の選挙は等級選挙制で、町村税納額の多寡によって二分され、町村内の少数派である富有層の代表が町村会議員の半数を確実に占め得るしくみになっていた。議員数は戸数によって決められており、当市域の町村はいずれも一二名であった。任期は六年で、三年ごとに半数が改選された。
町村の運営は、三役と呼ばれる町村長、助役、収入役が行った。彼らはいずれも町村会によって選出され、町村長、助役は名誉職で無給を原則としたが、たいていは条例を設けて有給にしている。このほか役場には数名の書記と使丁がいた。因みに華川村の場合、明治二十六年書記二名、使丁二名、定雇一名であった。これらの役場吏員のほかに、同村では区長八名、学務委員三名がいて、村の行政に協力した。ともあれ、これら数少ない吏員によって、徴税、戸籍、徴兵、教育、衛生、土木などの厖大な事務を処理していったのであるから、彼らの日々の仕事は相当に劇務であったろう。諸々の経費や労力を負担した町村民もさることながら、こうした劇務によくたえた吏員の存在も、明治国家の大きな支えとなっていたものと考えられる。