明治国家の基礎に位置付けられた町村も、その内実に立ちいってみるとさまざまな問題をはらんでいた。なかでも大きな問題となったのは村内の地域的な対立である。町村合併が地勢や人情風俗などを考慮して行われたとはいえ、もともと旧村の独自な要望から出たものでなく、国家の側からいわば強制的になされたものであるから、地域的対立はおこるべくしておこった問題であったといえる。またそれは、新たに誕生した町村が、全村的合意を得ていくために克服されなければならない課題でもあった。
華川村では、明治二十二年(一八八九)四月新村制の施行となったが、まわりの町村と違ってしばらくの間、村長の選出ができないでいた。翌年の末になってようやく滑川勘五郎や鈴木弘三郎が候補に上ったが村政の実権は依然助役が握っていた。その後もしばらく村長空席の期間がつづく。やっと明治二十六年二月になって村長選出の村会がもたれるが、助役派は村会場へ姿をみせず、反対派議員が帰ったあとで鈴木を村長に選んだのである。しかし村会議員神永喜八らの強い反対にあって、同年六月結局郡役所の吏員の監視下で村会が開かれ、二田幸が新しく村長に選出されて一段落となった。
華川村は東西に長い村である。鈴木は大字下相田の人で村の東部に勢力をもっており、中妻村聯合と称した明治十年代は戸長もつとめた人物である。これに対する神永喜八らは西部地域に勢力をもっていた。けだし西部山側の地域では炭坑経営者が増え、その資力を背景に村内における勢力が逆転してきたことに対し、東部農村地域の人たちが、対抗心をもったとしても不思議ではない。
南中郷村においても明治二十四年から翌年にかけて吏員の選挙をめぐって二派に分かれ、村内紛議があったことを、「いはらき」新聞はたびたび報じている。一方を山岳党、他方を海浜党と称しているから、これも明らかに地勢による地域間の対立であったといえる。このほか、「いはらき」新聞には、明治三十五年(一九〇二)北中郷村で小学校建設をめぐって紛議があったという記事がある。小学校の新築位置問題などは、地域的対立をひきおこす恰好の材料となった。
またしばしば新聞にも書かれた大問題に、町村税の滞納問題がある。この問題では、県下で多賀郡が最も悪評を買っており、その対策に郡長は手を焼いた。北茨城市域の町村の滞納額も多く、政争などで混乱している町村ほどいちじるしいという傾向がみられる。こうした町村政の混乱や問題が、のちの地方改良運動をおこさせるひとつの大きな要因となった。