日露戦争は兵隊たる人的資源はもちろん、食糧や武器弾薬などの物的資源を総動員しての近代戦であり、これらの資源を使い尽して、日本はかろうじて勝利することができた。北茨城市域の町村で、戦争のためになされた徴発や負担がいかほどであったかは明らかでないが、戦没者は南中郷村八、北中郷村九、華川村五、関南村三、関本村五、大津町二、平潟町一の計三三名にのぼった。因みに以前の日清戦争での戦死者は当市域で五名であった。日露戦争による損害がいかに大きかったかがわかる。
この日露戦争によって、いよいよ国家は、経済的にも軍事的にも国際競争裡で勝ちぬいていかなければならなくなった。しかし、国家の基礎とされた町村は、いまや戦争による負担増とその後の経済的混乱のもとで苦しみあえいでいたのである。この疲弊した町村を国家の要請に答え得る鞏固なものにするため、地方改良運動がすすめられることになった。