明治三十八年(一九〇五)七月、茨城県は、「郡市町村事蹟調査」を布達し実施に移していく。これは郡市町村の実態をすべて数量的に把握しようとするもので、日露戦争という総力戦を遂行するための軍事的要請にもとづいていたことはいうまでもない。こうして各町村役場には「事蹟簿」がそなえられることになる。これには土地、戸口、農業、畜産、山林、鉱山、水産、工業、商業、金融、交通、教育、衛生、兵事、社寺、貯蓄、災害、租税、財政などあらゆる部門、あらゆる項目が網羅されている。永久保存ができるよう丈夫な美濃紙を用いた簿冊で、一冊で三年分記入できるようになっている。
明治四十一年十月「戊申詔書」が渙発され、以後地方改良運動は全国的組織的にすすめられていくことになる。当時の県知事坂仲輔は報徳主義者として知られるが、この運動にはとりわけ熱心であった。彼は着任するとすぐ、郡市町村に、その運営の指針となるような郡市町村是の策定を命じた。町村是はいうなれば、町村の振興計画書であった。
記録では、明治四十五年までに北茨城市域の全町村で町村是が策定されたことになっているが、現在のところ所在の確認できたのは「華川村是調査書」だけである。この村是は、生産力の増大と経費の節約とを村振興の二大支柱にすえている。当時すでに村経済の中でかなりのウェイトをしめていた石炭業について、「将来ヲ推及スル能ハス」として除外をしていることは、農業を中心として村の復興をはかろうとしたこの運動の性格をよく物語っている。