町村の経済を豊かにするにはまず第一に生産力の増大がはかられなければならない。農業が主産業であった当時、農業生産力をいかに増大させるかは、国家の緊急な課題となっていた。早くから農業生産力の増大はさけばれており、明治二十年代から農会という団体が結成され、牛馬耕、耕地整理、肥料改良、米麦作改良などいわゆる農事改良が漸次すすめられてきた。日露戦後、とくに地方改良運動を通じて、県、郡、町村の行政機関も全力をあげてその普及にのり出すことになるのである。
たとえば米作をみよう。近年は、農業技術の高度な機械化がすすみ、米作りの様相も変ってきたが、つい昭和三十年代頃まで一般的であった種子塩水選、改良短冊型苗代、苗代害虫駆除、正条植、器械除草、稲架乾燥といった行程は、この時期とくに普及がはかられ定着をみたものである。学校ぐるみ児童生徒が田にかり出され、害虫駆除にあたる田園風景があちこちにみられた。また正条植の実行には巡査なども動員され督励にあたった。サーベル農政といわれるゆえんである。
このように生産力の増進が強制される一方で、国民精神の作興が地方改良運動のもうひとつの主題となった。日露戦後、資本主義のいちじるしい発展につれ、村の様相も変りつつあったが、この時期、鎮守を中心に村の精神的紐帯の強化がはかられたのである。