坂知事は、町村是の策定を命ずる一方、県是の策定にも意をそそぎ、明治四十四年(一九一一)四月、「産業ニ関スル県是」を確定、発表した。これは、農業、蚕業、畜産業、林業、水産業、工業に関する施策方針を明らかにしたもので、いわば総合的な県の産業振興計画書である。ここでも、農業、すなわち農事改良に最大の重点が置かれたのはもちろんである。
この実施にあたっては、模範村方式が採られ、多賀郡では、松岡村(高萩市)とならんで関南村が模範実行村の指定を受けた。この方式は、模範村に県・郡から指導員を派遣し、農事改良について集中的な指導を施し、そこでの実績が、自然に近隣町村へ波及していくことをねらったのである。模範村に指定されることは、その村が比較的優良な村であることを意味した。北茨城市域の他の四か村が山林や炭礦を背負い、大津、平潟が漁業の町であるのにくらべ、この村が純粋な農業村であったことも、県是の、つまり地方改良運動の性格と合致していたのであろう。
村内の全ての家は、一〇~二〇戸を単位とする一八の県是実行組合に組織され、各組合には組合長が置かれた。郡役所の指導により、役場員、農会役員、学校職員、村会議員、郡会議員、区長、改良委員、巡査、青年会、神官、僧侶など村のあらゆる機関、団体の代表を集めて協議会がもたれ、ここで村の実情にあった改良事項、実行項目が協議決定され、それが組合長を通じ実行組合におろされるという仕組みである。この実行組合には、農事改良ばかりでなく、諸税金の完納、勤倹貯蓄、就学の奨励、風紀の改良なども合わせて義務付けられていた。こうしてこの村では、米麦の収穫量も確実に増え、納税も、悪評高い多賀郡にあって滞納なしという成績を収めている。
この運動には村のあらゆる団体が動員されたが、なかでも青年会や農会が大きな役割を果たした。あるいは青年会長として、あるいは農会長として、この運動を指導していったのは村長の小野万喜である。彼は国家の村に対する要請と村民生活への配慮、このややもすれば相対立する課題に、まっこうから取り組んだこの時代にふさわしい村長であった。
明治四十四年、米穀検査制度が実施されるが、その中の二重俵装について、彼は、農民にとって無意味な負担増であるからと、その撤廃を求める請願書を知事に提出している。その中にいう。「農民ノ労働ハ常ニ高潮ニ達シ近時ノ人心皆都会ニ奔リ田園荒廃ノ傾キアル」と。いくら働いても良くならない農村の生活を厭(いと)い都会に出ていく農民がふえつつあることが知られる。都市での生活とて、けしてらくなものではなかったはずである。また逆に都会の空気も農村に流れ込んできた。風紀の改良や勤倹貯蓄が声高に叫ばれれば叫ばれるほど、奢侈化がすすみ貨幣支出はふえていく。農村は、しだいにそして確実に変化していくのである。