江戸時代末期、神永喜八や柴田早之介らによって開発された北茨城地方の石炭は、明治十五年(一八八二)頃、東茨城郡竹原村(東茨城郡美野里町)長谷川平吉、上小津田村神永喜八、小豆畑村永山文右衛門、山県雄次郎、佐藤保信、中妻村滑川敬三らが小豆畑村遠坊作・車置・雄平・芳ノ目・東ノ巣・里見・大平、大塚村中ノ作などを開発し、石炭産業を発展させていった。
明治四年より同十四年までの石炭産額数量は一三〇八万二八〇〇斤にのぼり、石炭一俵は一〇〇斤入りなので、一一年間に産出した石炭量は一万三〇〇〇俵であった(当時一俵の値段は一四銭である)。これらの石炭は製塩用、海陸蒸気機関用はもちろんのこと、酒造や一般家庭用などにも使用されるようになった。
このように毎年大量の石炭を産出し、販売をつづけてきたが、各人各様の販売方法なので、明治十五年長谷川兵吉らが中心となり、東京の堀松之助を社長として小豆畑村に日本石炭商会を設立した。
この商会はのちに広岡逸人が引き受け多賀商社と改称し営業をつづけた。明治十八年三月より十月迄の八か月間に多賀商社が取り扱った石炭は九〇万九七七七斤と記録にみえる。このようにして華川、磯原地区で採炭されたものは商社を通して販売されていった。
ひとつひとつ近代化されつつある当地方の石炭産業も、明治二十七年松岡の手綱炭礦が株式会社組織になったのを初めとして、次つぎに株式会社として出発することとなった。華川地区では、明治二十九年芳ノ目に鉱区を所有している伊藤弘らから、福島の白水炭礦を経営していた竹内綱が同炭礦の一事業としてその鉱区を買い受け、大江卓と組んで資本金三五万円で茨城炭礦会社を設立した。この炭礦は翌年茨城無煙炭礦と改名し、明治三四年(一九〇一)株式会社となった。同年磯原地区でも浅野総一郎の援助のもと阿部吾市と坂市太郎により茨城採炭株式会社が設立された。
これ以降、当地方の石炭産業は株式会社経営によって発達していくのであるが、発達を促した理由のひとつとして、当地方が大消費地京浜市場に近かったことをあげることができよう。