常磐線の開通は、常磐炭田と切り離して考えることはできない。日清戦争によって京浜地方の石炭は不足し、距離的に近い常磐炭田の需要が急激に増加した。今まで海上輸送のみにたよっていた石炭は、それだけでは増大する需要に応える輸送ができなくなってきた。
そこで距離的に近い常磐炭田を重視する政府は、輸送力の増強をはかるために、しかも宮城・福島・茨城三県の有志による鉄道開設の国会請願などがなされていたこともあり、明治二十七年(一八九四)水戸―岩沼間の鉄道工事を認可した。明治三十年二月二十五日、水戸―平間約九四キロメートルが開通した。
この日は臨時列車一往復が運転された。途中の停車駅は、佐和・大甕・下孫・助川・川尻・高萩・磯原・関本・勿来・植田・泉・湯本・綴で、所用時間は往復とも三時間一五分であった。写真はその時の試乗招待状である。
なお平から岩沼までは翌明治三十一年の八月に開通された。創立当時この線は磐城線と呼ばれたが、明治三十四年海岸線と改められ、同三十九年国有化され、常磐線となった。