常磐線の開通にともなって、炭礦の数や出炭量も急激に増大した。
常磐線開通前の茨城県域の炭礦は六炭礦、年間産炭量約一〇〇〇トンにすぎなかったのが、明治三十三年(一九〇〇)には三四炭礦を数え、磯原駅取り扱い石炭輸送量だけでも約三万二〇〇〇トンにも達するほどであった。そこで明治三十年茨城無煙炭礦では輸送量増強のため磯原駅まで軌道を設け、軽便鉄道で輸送することとなった。
また採炭方法も、狸掘から近代技術の導入による方法へと変っていった。
たとえば茨城無煙炭礦の場合、明治三十一年に八〇馬力の蒸気巻き揚げ機を設置し運搬の能率化をはかった。さらに明治三十六年には芳ノ目に火力発電所、同三十九年には花園川に一二〇キロワットの水力発電所をそれぞれ設置するなど、採炭や輸送の近代化につとめた。