大正初期の頃、炭礦従業員は大別して所員と坑夫に分かれていた。その人々の住宅は会社から無料で貸与されていたが、所員は一戸建、坑夫は長屋であった。また独身者は合宿所といって独身寮に住み、安い賄料で生活できた。浴場・水道・便所は所員・独身者の建物にはほとんど備えつけてあったが、坑夫とその家族は無料の共同施設を使用するのが普通であった。日用品は会社内の用度部が、一度に大量の品物を仕入れるので安く人々に供給していた。また坑内は、落磐など危険な面が多くあるので、大きな会社では従業員の健康管理のため診療所や病院の施設を整えたり、内容の充実をはかってきた。このほかに余暇の利用のため、娯楽・教養施設などにも力を入れていた。大きな会社はこのように働く人々やその家族に対する管理面は良かったが、小さな炭礦はあまり保障もなく粗末な日常生活を送っているのが普通であった。
炭礦も景気が良ければ活況を呈しているが、一度不景気の波が押し寄せると、不安な生活を送らねばならなかった。
大正八年三月六日午後六時頃、上小津田唐虫にある大日本炭礦株式会社磯原礦業所において坑夫七、八〇〇人が事務所や撰炭場などを打ち壊すという事件がおきた。これは会社側が従業員に対し、従来白米一升二三銭より二七銭で販売していたものを、三月一日より一升三〇銭に値上げしたため、坑夫たちが会社側に対し米の値下げか賃金の値上げを要求したが拒否され、ついにこの事件となったのである。この事件で首謀者とみなされる者が、騒擾罪として検挙・起訴されたが、坑夫に対しては償与の増給を行うことで決着した。この事件は周囲の炭礦にも影響をおよぼし、他の会社も賃金値上げなどを行い坑夫の要求に対処していった。
このような事件はあったが、多くの人々の間には一山一家の考え方が浸透し、相互扶助の生活が理想とされていた。