大津の漁業は、かつお漁、いわし漁ともに、明治にはいり、それまでにない隆盛ぶりを示し、いわし漁の八坂網(やさかあみ)漁法が揚繰網(あぐりあみ)漁法に改良され、さらに二艘巻揚繰巾着網(にそうまきあぐりきんちゃくあみ)漁法にかわると、漁獲量は増加した。明治三十四年(一九〇一)には、水産補習学校が置かれ、翌年には実業学校令にもとづく町立水産学校が設置されて、漁業従事者の育成がはかられた。その頃の魚市場での取り引きは、浜札(はまさつ)と称する一〇銭、二〇銭、五〇銭手形が発行され、三日間の延納を認めた支払いの慣例によっていたが、この浜札は私的な現金引換券であったので、やがて県当局から禁止命令を受けるにいたった。
漁法にも変化がみられ、てんてん舟と呼ばれる釣小舟のほかに、かつお船は明治四十年頃から石油発動機付船にかわり、遠洋漁業を行うようになった。しかし、出船数は次第に減少した。そして、明治四十四年には漁業発展の期待をこめた町立水産学校も、運営困難のため廃校となった。これは、明治末頃からのかつお漁の不漁にわざわいされたことによるものであったが、それにもまして大津の漁業の発展をはばんだのは、港湾設備の未整備であった。
このため港湾修築が焦眉の急とされ、明治四十三年から防波堤建設工事が実施された。大正十四年(一九二五)までの一六年間に、県費による一三三メートルの防波堤と町費による護岸が築造されたが、その進捗状況ははかばかしくなく、昭和にはいり、多額の町費と農林省や県の補助金による防波堤一三〇メートル増築の第二期修築工事がすすめられた。そして、昭和十二年(一九三七)度からは第三期修築工事がつづけられ、防波堤三〇メートルの増築および防砂堤延長二〇二メートルなどが築造され、ほぼ現在のかたちがととのえられ、この間冷凍冷蔵施設も整備された。
昭和にはいってからの漁獲状況は、二艘巻揚繰巾着網漁法のいっそうの発達により、いわしが漁獲高の首位を占め、最盛期の昭和十一年には七九三万九一五九貫の漁獲高を記録した。水産加工物も、このいわしを原料とするいわし煮干一〇四万七七〇〇貫、いわし頬刺二七万八五〇〇貫などの生産高がみられ、このほかあわび七五〇〇貫、海藻一一万八五〇〇貫などを水揚げした。
大津の漁業のもうひとつの特色に採鮑があった。
明治十二年(一八七九)鈴木常雄によって潜水器が採鮑に応用されると、それまでの裸体採鮑を圧倒し、採鮑量が増加した。しかし、濫獲の弊害をまねき、やがてあわびの減少をもたらすにいたった。明治十五年採鮑の再興がはかられ、鉄庄重らによって興業社と称するあわび缶詰製造工場も設立されたが、製品の売れゆきはのびず、半年にして解散した。
明治十七年裸体採鮑に水眼鏡が使用され、潜水器による採鮑との競争をうながすことになった。翌年あわびの濫獲防止と保護繁殖をはかるため、県当局により潜水器使用期間に制限が設けられたが、潜水器採鮑者の多くは、この禁令を無視したため、裸体採鮑者と潜水器採鮑者との間に、あわび繁殖場の入会をめぐってたえず紛争が引きおこされた。明治二十三年になり、潜水器採鮑による濫獲の害がはなはだしいため、県当局より潜水器使用が禁止された。この禁令は潜水器採鮑者を刺戟したが、多賀郡役所により調停の労がとられ、入会について合意をみ、明治二十五年には潜水器採鮑の大津町平潟町採鮑業組合が設立された。ここにおいて裸体採鮑、潜水器採鮑両者による稚鮑の保護繁殖を第一とする採鮑態勢が確立され、採鮑の最盛期をむかえた。