平潟港は明治以降漁港としての利用度がたかまり、明治十二年(一八七九)から県費により東防波堤五四メートルが築造され、明治三十六年に完成をみた。
平潟の漁業は、明治前半期は一本釣船のかつお漁のほかに、手繰船(てぐりぶね)の手繰網による沖合い漁などが行われていたが、明治二十年頃から打瀬船による底曳(そこひき)漁業が行われるようになり、漁獲量が増加した。
大正四年(一九一五)頃、トロール漁法のひとつの方法である開口板底曳漁法が、打瀬船(うたせふね)漁法にとってかわるようになった。開口板底曵は濫獲漁法といわれ禁止漁法となっていたが、その頃平潟港の無動力船がようやく二〇馬力程度の石油発動機をつけた動力船に改良されていく傾向にあったことと、この漁法が大量の漁獲をもたらすことから内密に使用された。
しかし、このことはやがて近隣漁民たちの怨嗟のまととなり、昭和にはいってまもなく、開口板底曳船がそれら漁民たちによって焼き打ちされる事件がおこった。
当時、開口板底曳をふくめ底曳漁法の無許可稼働は全国的な傾向であったが、国の方針により減船整理が行われることとなり、平潟港は一一か統と割りあてられた。この結果平潟港は以来底曳網に中心がおかれ、日中戦争開始以後は、漁獲奨励が行われて、平潟港の底曳船は増加した。
平潟港の修築は、昭和二年(一九二七)から昭和六年にかけて、県費により西防波堤六三メートルおよび物揚場の築造、浚渫(しゅんせつ)など港内庇護(ひご)の諸工事が行われ、この間昭和五年一月に指定港湾に編入された。つづいて昭和九、十両年に浚渫が施工され、自港漁船や廻船の入港および水揚げ量の増加がはかられ、さらに物揚場の増築、東防波堤の嵩上げなどが実施され、また製氷施設も整備された。