日本美術院五浦研究所

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明治三十一年(一八九八)岡倉天心が東京谷中に創設した日本美術院は、新しい日本美術の創造を目指して活発な運動を展開したが、やがて経営不振におちいり、活動も低調化した。天心はこの窮状を脱するため、日本美術院の地方移転を種々考慮したが、かねて飛田周山の斡旋により購入していた五浦の別荘地を日本美術院移転の地と定めた。

 五浦移転者は、横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山の四人で、いずれも家族ぐるみの移住であった。明治三十九年十二月のことであったが、世の中には「美術院の都落ち」と酷評する者もあった。

 しかし、五浦の地は芸術家にとって新天地であった。翌年の中秋に日本美術院五浦移転披露会が、観月会として行われた。東京、水戸、地元から多数の客を招き、五浦全域を会場とした賑やかさは、東洋のバルビゾンを目指した日本美術院の心意気を示すものであった。

 天心居宅から南に浦を隔てて観山宅と武山宅、北の高台に大観宅、春草宅が建てられ、さらに蛇頭の岬を前にした椿浦の絶壁の上に研究所が建てられた。研究所には天心の居室、大観たち四人の作画室と、研究会員の作画室が設けられた。大観たちは毎日居宅から研究所に通い、天心の指導を受け、より高い着想のすぐれた技巧の作品を目指して画業に精進した。研究会員には安田靱彦、今村紫紅、橋本永邦、尾竹竹坡らがおり、周山もその一人で、ともに短期間滞在して天心の指導を受けた。また、アメリカの美術研究家ウォーナーもしばしば天心宅に滞在し、日本古美術について教えを受けた。


岡倉天心旧居(現茨城大学五浦美術文化研究所)


日本美術院五浦研究所における大観らの製作風景

 明治四十年の第一回文展に際し、観山は「木の間の秋」、春草は「賢首菩薩」、武山は「阿房劫火」を出品し、ともにかつての「美術院の朦朧派」などと呼ばれた悪罵を払いのけると同時に、清新にして気力充実した絵画として世間の賞讃を博し、また大観も第三回文展に「流燈」を出品し、高い評価をかち得たが、これら代表作のかずかずは、いずれも五浦において制作されたものであった。

 しかし、天心はボストン美術館の東洋部長として一年の半分近くをアメリカですごすという生活ぶりで、五浦にいないことが多く、この間春草は病いを得て東京に去り、大観も居宅火災により本拠を東京に移し、また観山や武山も五浦を留守にすることが多くなり、大正二年天心の病没を機に、日本美術院の五浦時代は終焉をつげた。

 短い時期ではあったが、その期間は大観らにとってまたとない充実した修練の場となり、日本近代美術史上に残る数多くの名作が生まれた重要な時期であった。


海からのぞむ六角堂