能子は明治三十六年(一九〇三)四月一日、水産業と缶詰類製造業を営む大津町の旧家鉄家に生まれたが、小学三年生の時一家をあげて東京に移住。
大正五年(一九一六)東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部)に入学、声楽を専攻。卒業後は引きつづき東京女子音楽園に学び、こののち小学校に教鞭をとり、かたわらイタリアのテノール歌手サルコリにベルカント唱法を学んだ。
大正十一年サルコリの推薦でイタリアに遊学、テナー歌手ペルリルリに発声法を学び、さらにソプラノ歌手ラピア、発声法の権威ヘリーリリ、作曲家レスピーギやカセルラらから現代イタリア歌曲の解釈を学んだ。この間、詩人アントニオ・ベルトラメリの知遇を得、昭和二年(一九二七)彼と結婚した。
翌年彼と死別し、昭和六年三月声楽家としての再起を期し九年ぶりに帰国、各地で独唱会を開催、翌年再びイタリアに渡ったが、昭和十年帰国し、各地で独唱会を開いて、幅広く音楽活動を展開した。
戦後は鎌倉に居住し、ベルカント研究所を設立し、子弟の育成につとめた。昭和二十五年NHK毎日音楽コンクール声楽部門の審査員に委嘱され、昭和三十年日伊音楽協会理事に就任、昭和三十四年国立音楽大学の教壇に立ったが、昭和四十八年八月、七〇歳をもって死去した。
生涯を通じわが国にベルカント唱法を伝えた功績は大きく、またその指導は奥深い音楽性に支えられ、とくに詩と音楽の解釈には定評があった。イタリア歌曲に傾倒しながらも、「歌の持つ気持、詩の持つ香ひ、それが判ることが歌を歌ふ第一の条件です。その意味で日本人は、日本の歌こそ第一番のものです」といっているとおり、わが国の歌曲を愛した一面もあった。著書に『イタリア歌曲集』三巻がある。