昭和二年(一九二七)上野・浅草間に日本最初の地下鉄が開通した。その頃、すでに常磐線は複線化され、北茨城地方でも乗合自動車が走っていた。しかし運賃が一キロメートルあたり、鉄道一銭五厘(当時の葉書の価格)、自動車二銭五厘と高く、荷物は馬車、一般の庶民は徒歩が普通であった。町境いには荒地が多く、「夕べ淋しい町はずれ」の情景が残り、町境いの橋は木造であった。そのため河川の増水によって潜水あるいは流失し、渡橋不能になることも珍しくなかった。当市域で本格的な永久橋が建設されたのは、昭和五年の大北橋が最初だが、それとて橋幅七メートル余のものにすぎなかった。この年の大津町の人口は五一二〇人、平潟町は二六七五人、ともに典型的な漁村で、港湾は自然地形を利用したために、荒天時には波浪を浴びる人家もあった。全国農漁村の欠食児童二〇万人と文部省が発表する(昭和七年)時代であっては、街並みにも、何か寒々としたものが感じられたであろう。