昭和の初期、金融恐慌、世界恐慌と世の中は不景気となり、失業者が街にあふれた。不安な日々を送る人々にとって、娯楽はひと時の慰めであった。
この頃、北茨城市域でも映画が上映され始めた。当時、映画は活動大写真といわれ、弁士や楽士が付いたり、また活動大連鎖劇(れんさげき)と呼ばれるものは、映画と演劇とがミックスされたもので大変な人気であった。
白砂青松の海岸に恵まれた当市域は、夏には各地からの海水浴客で混雑し、その盛況ぶりは新聞にもたびたび紹介されている。写真は仁井田浜の海水浴風景である。当時の人々にとっては手軽な何よりのレクリエーションであった。
また当市域の北部には、いくつかの鉱泉宿があり、なかでも湯之網(ゆなみ)鉱泉は元禄の頃に開かれたといわれ、農閑期には湯治客だけでなく、一日の疲れをいやしに人力車で遊びにくる人たちの姿もみられ、二軒の宿は常に盛況であった。