昭和初期の磯原

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大正十四年(一九二五)一月、北中郷村は磯原町と改称、町制を敷いた。北中郷村は、石炭産業の発展に伴ない、その集散地として栄え、当地方の中心となっていた。町制なった磯原町は昭和五年には人口一万を超えるに至った。不景気の波と、軍縮・満州事変・国際連盟脱退など不安な政情の下での日々ではあったが、豊田自動車商会(磯原町木皿)の乗合自動車が磯原と松原町(高萩市)を結ぶなど、磯原を起点としたバス路線が各地を走り、炭礦景気で大金を得た人たちが豪遊するなど、新興磯原は商業の中心地としても栄えた。

 当時の磯原は火災の多い町で大正十年、昭和六年、同十年、同十二年と大火がつづいた。そのため火災保険の掛金が他町村より高額であるとさえいわれていた。また大北川の氾濫もたびたびで、今のように揚水ポンプもなく町民の苦労は大きかった。とくに昭和十六年の洪水では多大の被害を受けた。


昭和初期の材木店の初荷


昭和初期の酒屋の店先き


昭和16年の水害(磯原町駅前通り)


消火訓練の模様