経済更生運動の展開

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昭和四年(一九二九)アメリカに始まった経済恐慌は、世界恐慌となって日本にも波及した。産業全般は不振となり、失業者が街にあふれた。また農産物価格は下落し、農村は大きな打撃を被り、深刻な農業恐慌にみまわれ、農家経済は破綻の危機に瀕し、農家負債額が増加した。

 この事態に直面し、多賀郡下二〇か町村長は、土木事業をおこして失業者を救済すべく、昭和五年七月には袂を連ねて県に陳情する動きをみせたが、磯原町では重内炭礦休止による失業者救済のために、九月道路開鑿工事(同町大塚―高岡村横川)を起工した。また昭和七年には、失業者の要求に応じて飯米をやすねで配給した。

 国は、危機に瀕した農家の経済事情に対する応急対策として、昭和七年八月に救農臨時議会を招集し、救農土木事業の実施を決定した。これにより北茨城地方でも磯原町、関南村、南中郷村などで、時局匡救(きょうきゅう)土木事業が施行された。しかし、この措置も一時的な救済事業でしかなかった。そこで国は、これにかわって全町村民が協力一致して、農村の更生と経済の安定に努むべき農山漁村経済更生運動を、全国的に展開することになった。

 経済更生運動は、茨城県においては、昭和七年十一月に農林省の訓令を受けて茨城県知事訓令が出されて、具体的に展開された。

 北茨城地方では、昭和七年に大津町が経済更生模範実行町村の指定を受け、また昭和九年に平潟町、同十年に関南村、同十二年には華川村がそれぞれ経済更生指定実行町村の指定を受け、経済更生運動が実施された。


昭和9年度平潟町の経済更生計画書

 関南村では、村内負債利子および収入の欠損合計九三七三円を解消するため、農業生産の増殖と農家経済の改善に主力をそそぐ経済更生計画がたてられた。その大要は、次のようなものであった。

 一、経営部 土地利用・労力利用の合理化、自給肥料の奨励、主要農産物の増殖、副業の奨励

 二、経済部 産業組合の拡充および利用、農産物の販売統制、購買統制、貯金の奨励、負債整理、簿記の奨励、自家用醤油の醸造奨励

 三、社会教化部 忠君愛国・敬神崇祖の精神を涵養すること、生活改善、研究心・読書趣味の向上をはかること、必要に応じ規約を定むること、講演会・講話会を開催し、改善目標の徹底を期すること

 そして、この計画の実行督励方法として、次のような施策があげられた。部落協議会や各種団体の集会ごとにこの趣旨の普及をはかる、村民総集会を開催し計画実行の宣誓式を挙行する、農家組合を設置し計画実行の徹底を期する、更生記念日を設定し計画実行のための奮起を促す。その施策の基をなす考えは、隣保互助(りんぽごじょ)共同精神の高揚であった。

 関南村の更生計画は年ごとに着々と実績を収め、昭和十四年には農林省特別助成経済更生町村の指定を受け、農作物の四割増収を企図し、さらにその翌年には全村教育を実施し、経済更生運動の完遂を期した。


昭和10年度関南村の経済更生計画書


同上書内容の一部