昭和六年(一九三一)九月の満州事変開始以来、政府の「不拡大方針」の声明にもかかわらず、日本軍の軍事行動は拡大されていった。そして、昭和十二年七月に日中戦争が勃発すると、中国大陸における戦線はますます拡大され果てしなくつづく泥沼の様相を呈していった。このため戦線に送られる兵員数はますます増加し、町や村からは未曾有の数の兵員が召集された。これら兵員の大部分は、町や村の主要な労働力であったから、工場や農家の労働力はいちじるしく不足し、生産向上を促がされる工場や農家に深刻な影響をおよぼした。
またこれとともに、「銃後」と呼ばれた日本の国内はますます戦時色が濃くなり、国民精神総動員運動や国家総動員法などの頑強な力によって戦争に動員されることになり、社会は軍国主義一色にぬりつぶされていった。警防団や国防婦人会などが組織され、行政の末端機構として隣組、町内会、常会などが設けられて、国民は戦争への協力を要請された。
前線に召集されて出征した兵士たちへの慰問袋の発送や、戦勝、武運長久を町や村の鎮守に祈願することも銃後のつとめとして奨励され、平潟国防婦人会では八幡宮への月詣りが実施された。不幸にも戦死をとげ、無言の帰還をする兵士は忠勇の士として迎えられ、町葬や村葬がとり行われたが、これら戦没兵士を出した家の打撃は大きかった。戦没兵士や出征兵士の家庭への慰問や勤労奉仕もまた奨励され、それらの奉仕が隣組や男女青年団、婦人会を初め、学童、生徒たちの手も交えて行われた。
節約と貯蓄も銃後の重要なつとめであった。唐虫婦人会では石炭を拾って国防献金をし、関南村では愛国貯金を実施し、日中戦争開始以後三年間に六万円の貯蓄をする実績をあげた。
各家庭には空襲にそなえて防火用水桶、砂袋、バケツ、火叩き、はしごなどが用意され、隣組などが中心になって防火訓練が行われ、また太平洋に面した北茨城地方の防空の使命を帯びて、軍の施設である防空監視哨が平潟町、磯原町に配備された。
炭礦には産業報国会が設置された。中郷無煙炭礦に産業報国協和会が、芳ノ目炭礦川波礦業所には産業報国会がそれぞれ昭和十三年に発会した。
昭和十六年(一九四一)、学校教育においては国民学校令が公布され、小学校は国民学校と改められ、戦時体制に即応した少国民の錬成に教育目標の重点が置かれ、銃後の守りに率先挺身するとともに、戦争を断乎遂行する精神の培養がはかられた。そして男子の剣道や銃剣術、女子の薙刀の訓練などが授業の中に採り入れられた。また出征兵士見送りへの参列、戦地の兵士への慰問袋や慰問文の発送、出征兵士や戦没兵士の家庭への慰問や勤労奉仕などの諸行事が、授業のあいまをぬって繰り広げられた。このほか児童貯金も勧奨され、大津国民学校では一万八〇〇〇円もの貯金高をあげ、さらに食糧増産の一環としてすすめられた学校農園の経営では、関南国民学校が八反歩を開墾し、ともに模範とされた。
太平洋戦争が勃発すると、国をあげて「一億総動員」の体制はさらに強化され、北茨城地方においても、かずかずの施策が推進された。大津町では戦争必勝の大祈願祭や在郷軍人分会の非常召集、大津航空少年隊の結成による軍国少年の育成、漁業従事者三〇〇名による漁業報国隊の結成、小船業者の増産対策としての大敷網(おおしきあみ)の共同経営などが実施された。磯原町では商業報国隊の結成、飛行機献納運動などが行われた。
一方生活物資は切符配給制に統制され、戦線の拡大とともにその供給は困難の度を加え、代用品をもってまかなわれるものが多かった。兵器製造材もしだいに不足し、それをまかなうために家庭からも金属製品の回収が強行された。
昭和十八年になると、生産力は低下し、物資不足はますますひどくなり、人々はひとしく耐乏生活を余儀なくされた。