日中戦争がおこった昭和十二年(一九三七)、常磐炭田は活況を呈し、北茨城地方でも入山炭礦では新坑が開鑿され、坑夫五〇〇名が増員され、また中郷無煙炭礦では優良炭層が発見されるなどのことがあいつぎ、「石炭の需要は無限」ということもあって増産がはかられた。
時局が太平洋戦争へと突入すると、戦争遂行に必要とする物資の増産の掛け声に応じ、炭礦においても「蹶起総力で増産」することが「報国の決意」として誓われ、増産兵団制が実施され、飛躍的な増産が計画された。そして、昭和十七年の石炭増産連動では中郷無煙炭礦が第一位の成績を収め、新礦区の開発がすすめられた。
この増産を一方で支えたのが、勤労奉仕隊の活躍であった。
勤労奉仕隊は、学徒や商店主などによってそれぞれ結成され、県立日立中学校生徒や水戸市、古河市、下妻町を初め、地元大津町の商業報国隊などが、炭礦への「援兵」や「援車」として、地下坑内の「切羽の最前線」へ次つぎと繰り込み、慣れぬ手に「鶴嘴を振るって」汗を流したのである。
昭和十八年になると、日本に強制連行された朝鮮人が炭礦にも配置され、中郷無煙炭礦などにぞくぞくと入山した。
戦局の推移とともに石炭の緊急増産が要請されると、女子挺身隊や農民勤労報国隊などまでもが動員され、昭和十九年にはこれら勤労奉仕隊の人数は一万五〇〇〇人にものぼり、「増炭戦」に「突撃」した。そして、戦局の悪化の中においても、「必勝の増産運動」は強力に展開され、勤労奉仕隊にもその勤労をもって「精神力で勝ち抜く」ことが強調されたのである。