風船部分は、直径一〇メートル。手漉きの和紙をコンニャク糊で四層から五層に貼りあわせ、畳で一畳分くらいの原紙にする。グリセリンで洗って、やわらかい羊皮のようにする。これを使って東京の日本劇場、宝塚劇場、国際劇場、国技館などドーム型の建物内部で気球に仕上げ、コンプレッサーで漏洩テストのため満球にした。主として女店員、女学生たちが動員されて作業にあたり、秘密保持を誓わされた。
気球の下方、約十六メートルに緩衝撃コードで高度保持装置を吊り、中心に一五キログラム爆弾一個と五キログラム焼夷弾四個をセット。多くの砂袋で囲み重さを調節。気圧の変化で砂袋が落ちたり上昇しすぎると水素ガスが抜けたり、強風に吹かれて上下ジグザグ運動をくり返し、約一万キロメートルのかなたへ横断する。自動的に爆弾が投下されると、気球もふくめ全体が爆発して燃えてしまう。早くて四〇時間、平均五〇時間でアメリカへ着く。大津基地には一八個の放球台があった。攻撃開始の昭和十九年十一月三日、ひとつの放球台で爆発事故が発生。三名の戦死者が出た。基地跡の深い山あいに、現在無縁仏の卒塔婆が立っている。