空襲を受けた大津

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第二次大戦中空襲による日本の罹災者は九二〇万人、内死者三〇万人、全焼家屋二二一万戸といわれるが、北茨城市域での戦災の中で最大のものは、昭和二十年(一九四五)四月十二日の大津空襲であった。

 この日正午頃、福島県郡山地区の爆撃を終ったB29の編隊が、マリアナ諸島に帰還の途中、大津町の上空を通過、最後尾の一機が、三個の爆弾を投下した。あいにく、昼食の時間帯であり、誤報から警戒警報が解除されたこととあいまって、三九名の爆死者、一〇名の爆焼死者、一六二世帯の被災という大きな犠牲を出すこととなった。中には食事中の子ども四人を一瞬にして失った家庭も出た。


煙のあがる大津町被災地


戦災のあと片付け(大津町)

 日本の敗色は濃く、当市域の人々は、この事件に戦争の悲惨さを体験した。

 大津が空襲を受けた四か月後の八月十五日、日本はポツダム宣言を受諾、太平洋戦争は日本の敗戦をもって終結した。