戦後の生活

237 ~ 238

敗戦は人々を混迷と虚脱に追い込み、加えて深刻な物資不足が人々の生活をおそった。昭和二十一年(一九四六)三月には、食糧難のため全国二五都市への転入を禁止する「都会地転入抑制緊急措置令」が公布され、同年五月十九日には皇居前で食糧メーデーが行われた。NHKが、「あなたはどうして食べていますか」のテーマで街頭録音を行ったのもこの頃である。

 すべての物資は配給制で公定価格が定められ、切符や通帳がなければ購入できず、その配給量も生活を維持し得るものではなかった。しかも敗戦の年の十月、米一升(一・四キログラム)の公定価格は五三銭であったが、闇値は七〇円もした。このため政府は物価安定本部・物価庁を設置したが、昭和二十一年一月に七円で新発売された煙草の「ピース」は、七月に一〇円、十二月には二〇円と一年弱の間に三倍にも値上りするインフレであった。


終戦前後の配給通帳


終戦前後の配給品申し込み書


戦後の衣料切符

 しかし北茨城市域は、農村部であったため食糧も比較的確保でき、かつ石炭産業が国の政策上優遇されたこともあって、他地域から移住する人々も多く、しだいに人口が増加していった。この頃、当市域の海岸でも盛んに製塩が行われたが、これら塩たきの煙も、今ではその跡形もない。しかし、この塩たきの事実は、当時の極度の物資不足の世相を物語るものであった。

 このように生活は苦しかったが、占領軍の指導によるわが国の軍国主義の一掃と民主化は着実にすすめられた。農村の民主化をねらった農地改革、平和日本の担い手を育成するための新しい教育の展開、政治権力の中央集中の打破・地方分権化など、日本の民主化はあらゆる分野で推しすすめられた。昭和二十一年一月一日、絶対の権力を握っていた「現人神」天皇は人間宣言を行い、同年十一月三日日本国憲法が公布され、主権は国民にあることが定められ。天皇は国の象徴となった。それまで各学校に厳重に安置されていた「御真影」は国に返され、奉安殿は破却された。人々は急激な価値感の転換に直面したのである。


「御真影」移遷記事のある学校沿革誌

 この頃当市域からも皇居清掃奉仕団が上京し、両陛下から親しくお言葉をいただき感激した人も多かった、という事実も当時の世相の一端を示していよう。


皇居清掃奉仕団