昭和二十年(一九四五)十二月婦人参政権が認められ、政治の上での男女平等が確立した。こえて同二十二年地方自治法が公布され、地方の政治は、地方住民の意志と責任において行われることとなった。この間昭和二十一年七月十日の「いはらき」新聞は次のような記事を載せている。
磯原町長加藤恒夫氏は六日任期満了となったので、後任者につき町議・各種団体代表等が町役場において協議会を開いた結果、満場異議なく公選に決定、期日は廿一日とした。衆議院議員選挙法にもとづくもので、郡下最初の公選である。
この時選挙を争ったのは、片寄富七、滝五郎、鈴木金太郎の三人で、鈴木の選挙母体として活躍したのが磯原青壮連盟であった。
磯原青壮連盟は吉久保一夫が委員長となり、旧来の陋習を破り、町政に新風を入れ、民主主義を促進することを目的とした政治団体であった。
ところで、敗戦直後の日本各地の民情を記録したマーク・ゲインの『ニッポン日記』には、磯原青壮連盟は「保守反動の団体」として登場する。たしかに、戦後の左傾化に対する保守系若手の対応という側面はあったろう。しかし、昭和二十一年八月磯原青壮連盟が選挙運動の一環として、明徳国民学校を会場として開催した講演会は、「農村の民主化について」、「社会意識の過去と将来」がテーマであった。このテーマからみても、たんなる保守反動ときめつけることはできない。
選挙の結果は磯原青壮連盟の推す鈴木金太郎が当選した。地方自治法で首長選が定められたのはこの磯原町長選挙の翌年のことである。制度上正式な首長公選ではなかったが、民主化の波をいち早く先どりし、町長公選を推進した磯原青壮連盟の活躍は、戦後の多くの民主化運動の中でも特筆に値しよう。