太平洋戦争の敗戦により大混乱をきたした石炭産業は、その後政府の増産政策の推進によりいち早く復興のきざしをみせ、昭和二十一年より同二十三年にかけ華川地区を中心として、従来の炭礦のほかに、中小資本による新坑がぞくぞくと開削された。一方昭和二十五年におきた朝鮮戦争は石炭産業に特需景気をもたらし、掘れば売れるという空前の活況を呈した。たとえば常磐炭礦神の山礦の場合、昭和二十五年の従業員は五九三人であったが、朝鮮戦争が休戦した同二十七年には七四〇人となり、出炭量も九・四万トンから一六・五万トンに急上昇した。
当時一〇〇人以上の従業員を雇用していた炭礦には常磐・大日本・関本・山口・常磐合同・杉本・須藤・上田の各炭礦があり、このほかに数多くの小炭礦があった。常磐炭礦は昭和二十七年日本一のボーナスを支給し、まさに石炭は「黒ダイヤ」と呼ばれるにふさわしかった。
このように石炭産業界が活況を呈していた頃、大資本の炭礦は石油攻勢に備えて生産性の向上とコストダウンをはかるべく数次にわたって合理化をはかっていた。昭和二十七年朝鮮戦争休戦協定が成立して特需景気が去り、世の中には不景気風が吹くようになった。同じ年石油類の統制が撤廃されるにおよんで、不況の波は石炭産業をものみこみ、以後弱小炭礦は転落の一途をたどりはじめた。しかし合理化をはかった炭礦はその間若干の坑員削減はしたものの、他産業のように三割操短・首切り・強制配置転換などはあまり行わず、このナベ底景気といわれた不況を乗り切った。たとえば常磐炭礦中郷・神の山両礦とも創立以来最高の従業員を抱え、出炭量も急上昇した。
だが、これら各炭礦も、石油によるエネルギー革命には勝てず、昭和三十四年以降は出炭制限や一時帰休制などを設けて苦況打開をはかったが、石炭斜陽化の道はすすむ一方であった。