昭和二十年(一九四五)労働組合法、同二十一年労働関係調整法、同二十二年労働基準法のいわゆる労働三法があいついで公布され、労働者の基本的権利が保障されることとなり、各地に労働組合結成の動きが活発になった。
北茨城地方の各炭礦でも昭和二十一年に中郷・神の山・大日本・関本各炭礦労働組合が次つぎと結成されていった。
中郷労働組合結成式のようすについて『常磐茨城炭礦労働組合二〇周年記念誌』には「組合員になるためには入会金五円を会館の入口で支払って入場、兎に角俺達の手で何とか生活のたて直しをやろうとの熱意に燃える労働者が集まって、われかえる拍手と歓声の中から我々の組合が誕生した」と記されている。
組合の最初の大きな仕事は、戦後の食糧難に対応した食糧の確保と賃金交渉であった。たとえば関本炭礦労働組合では、食糧難解決のため会社のトラックを借用し、県外へ野菜獲得にいき、組合員に分配するなどの活動をした。このように組合発足当時はインフレが激しく、食糧確保に追われ、賃上げ闘争もあまりできない苦しい生活がつづいた。昭和二十四年米国のドッチ経済顧問の指導によりインフレから極度のデフレに変り、賃金カットや首切りが荒れ狂う中、中郷労働組合を始めとする各組合は賃金アップ交渉を妥結させ、組合の力を示していった。
昭和二十五年には朝鮮戦争が勃発し、景気上昇の中、日本炭鉱労組(炭労)、日本労働組合評議会(総評)があいついで結成され常磐各炭礦労働組合も大いに意気をあげた。なかでも常磐茨城炭労は昭和二十七年の期末手当一万一六〇〇円を獲得、関係者の注目をあつめた。
組合活動は賃金や労働条件の改善と併行して組合員やその家族の生活を高める厚生要求闘争をつづけ、会館・倶楽部などの建設や幼稚園・保育所の開設要求、また結核・じん肺障害など病気に対する補償を取りつけたほかに、各種の文化活動を行っていった。