炭礦の社会は、集落からみえる小高い丘の上に山神様を祀り、共同作業を基盤とした一山一家の家族的性格の強いものであった。それは炭礦従業員が地元の人とあまり血縁関係のない福島・山形など東北各県を始めとして、全国各地より集まってきた人たちから成り立ち、炭礦住宅に住み、昔からの人たちとは孤立したひとつの生活形態をなしていたからである。
炭礦は、事務所が中心となり、会社経営から炭住の生活に至るまで管理運営されていたが、従業員や家族の直接の管理は炭住の区(班)単位に組織されていた世話所(せわしょ)が行った。世話所には区長がおり、従業員が安心して働けるよう、自分の管理する人々の冠婚葬祭、家庭争議、経済問題から子どもの教育に関するまであらゆる面倒をみた。
会社の従業員らに対する施設として、日常生活に欠くことのできない水道・浴場・便所などのほかに健康管理や疾病治療のための診療所や病院、結婚式などのできる倶楽部、各スポーツ施設や日常生活用品の売店などが整備されていた。
炭礦に住む人々の楽しみといえば、正月の行事、四月の山神祭、八月の旧盆、秋の運動会などがあげられる。山神祭は健康で安全に暮らせることに感謝するための炭礦(やま)をあげての祭りであり、そのため二日間の特別休暇が与えられた。また昭和三十五年頃までの景気の良かった時代の旧盆には、盛大な花火大会を催したり、夜を徹しての盆踊りやのど自慢大会などがあり人々を楽しませた。このほかに子どもたちの楽しみに会計店(かいけいみせ)がある。炭礦の給料日ともなると呉服屋、玩具屋、食料品屋、本屋など多くの店が道路狭しと露天に並び、従業員の家簇などで非常な賑いを呈した。そこには何かを買ってもらえる子どもたちの笑顔があった。
坑内の仕事は生命にかかわる危険がともなう。当地方の炭礦で多い事故といえば落盤、出水である。ひとたび犠牲者が出れば炭住は悲しみにくれる。働き手を失った家族が郷里に帰る姿は何とも痛々しい。
このようなことはあるが、炭礦で生活した人の中には住宅、燃料、水道は無料、支出はわずかの電気代と衣・食なので、炭礦ほど住み良い所はなかったといっている人もいる。