昭和三十年(一九五五)には二一か所の礦業所があり、同四十一年には一五〇万トンの出炭量を誇っていた当地方の諸炭礦も、石炭から石油へと転換したエネルギー革命によって、中小炭礦からしだいに閉山していった。
政府は昭和三十年八月「石炭鉱業合理化臨時措置法案」を閣議決定して石炭産業の維持に努力し、企業側も同年十二月に常磐共同火力発電所をいわき市勿来町に建設、石炭需要の安定をはかるとともに、量産によるコストダウンをねらって後退式ロング払の採炭法や、ダブルチブカッターを導入して合理化に努力した。
とくに大手であった常磐炭礦の茨城礦業所中郷新礦では、昭和四十六年八月世界最初のツゥー・ウェイシステムという自動採炭法で、運転はすべてテレビ操作という世界最高水準の設備を取り入れた。しかし同じ月の十四日突然大出水事故が発生、復旧の見込みがたたないまま、その月末には閉山した。なお、同礦の神の山礦も同年十一月に閉山し、ここに当地方の炭礦はわずかに露天掘を残すのみとなり、百有余年の歴史を閉じた。
一方市は、石炭産業の衰退にそなえ、昭和三十六年「産炭地域振興臨時措置法」の指定を受け、それにもとづく産炭地域振興事業団(昭和四十七年十月、地域振興整備公団と改称)の手によって、昭和四十年十二月磯原A工業団地第一期工事に着手し、三年後には、七一万九〇〇〇平方メートルの造成を完成した。またこの工業団地で必要とする工業用水を確保するため、県下初の多目的ダムとして、水沼ダムが同四十一年六月に完成した。
さらに同四十七年には磯原B工業団地造成工事に着手、同時に磯原住宅団地造成工事にも着工、職住のセット開発がすすめられていった。
このような努力の結果、昭和四十五年には磯原工業団地内の事業所数は二一、生産出荷額は四二億円余となり、本市の工業生産出荷額の四一パーセントを占めることとなり、同五十六年には事業所数二七、生産出荷額三八五億円余にまで成長した。
石炭産業の崩壊は北茨城市にとって大きな痛手ではあったが、市勢振興施策としての工業開発などがすすめられたことによって新しい産業が定着したため、そのショックを最小限度にくい止め得た。