武蔵野段丘面群(武蔵野面群)

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 下末吉面で、On-Pm1から約二メートル上位には、上下に比べ幾分暗色をした、層厚五〇センチから六〇センチの暗褐色層が挟まれている。この暗褐色層が段丘砂礫層上に堆積している段丘を武蔵野Ⅰ面と称する。場所によっては暗褐色層がなく、それより上位の褐色をした関東ローム層が段丘砂礫層上に堆積している土地もある。On-Pm1の絶対年代を根拠に、今から七~八万年前頃、離水したと考えられている。図2-4-3には、当時の離水域、および多摩川や支流が流れている氾濫(はんらん)域が示されている。
図2-4-3
図2-4-3 武蔵野砂礫が堆積している頃(今から7~8万年前頃)
格子模様は山地。斜線模様は上総層群が造った丘陵地。細かい砂模様は下末吉面、粗い砂模様は河川が乱流する氾濫原。模様がない場所は海域。

 On-Pm1から三~三・五メートル上位には、黄色をしたオコワのような、厚さ一〇センチ前後の軽石層が挟まれている。この軽石層は箱根(はこね)東京軽石層(以下、Hk-TPと略す)と称され、今から約五・五万年前頃、箱根火山から噴出した軽石層で、南関東地方の地史を明らかにする上で、欠かすことが出来ない地層である。Hk-TPが段丘砂礫層の上位に堆積している段丘面は武蔵野Ⅱ面である。下位の武蔵野(段丘)砂礫層とHk-TPの間には、一メートル前後の関東ローム層が挟まれている場所が多い。図2-4-4には、武蔵野Ⅱ面が多摩川や、支流の秋川や浅川などの氾濫域であった状況が示されている。氾濫域にはHk-TPや関東ローム層が降灰しても、洪水のたびに流し去られるため堆積しなかったが、すでに離水域になっていた武蔵野Ⅰ面には堆積した。後述するように、小平市の中島町から御幸町(みゆきちょう)にかけて、関東ローム層の厚さが一〇メートル以上となっている土地は、このようにして厚く堆積した場所である。
図2-4-4
図2-4-4 武蔵野Ⅱ面が多摩川や、支流の秋川・浅川の氾濫原であった頃(今から6万年前頃)

 東京湾の海水面が低下したのであろうか、多摩川とその支流が下刻(かこく)作用を増したため、流路の一部が段丘化するようになった。その結果、武蔵野Ⅰ面の下位に武蔵野Ⅱ面が形成され、武蔵野Ⅰ面とⅡ面の上には褐色の火山灰が堆積し、その上にHk-TPが堆積した。立川市若葉(わかば)町のけやき台団地と、上水南町にある情報通信研究機構近くの、仙川源流を結ぶ線より南側は、武蔵野Ⅱ面である。
 さらに、多摩川とその支流の下刻作用が進み、武蔵野Ⅲ面が形成された。この段丘面はHk-TPが段丘砂礫層に、直接堆積している。多摩川に沿う武蔵野Ⅲ面は、中台面(なかだいめん)とも呼ばれている。その後も多摩川を初めとする河川の下刻作用が続き、武蔵野Ⅰ面の北側などには、武蔵野-立川中間面が形成された。武蔵野-立川中間面は黒目川(くろめがわ)流域に分布し、Hk-TPを堆積させておらず、武蔵野ローム層の上部以上と立川ローム層が堆積している。小平市域のほとんどは武蔵野面群のうち、武蔵野Ⅰ面と武蔵野-立川中間面である。
 図2-5は、多くの地質柱状図を資料として作成した、小平市における関東ローム層の層厚線図である。図によると、西武拝島線の玉川上水駅から東方の青梅街道駅を通り、そこから小平霊園の東端を結ぶ線を境として、厚さが異なる。等厚線は全体として東西方向に伸びているが、これは関東ローム層が堆積を始めた当時の、地表面の状態を示し、同じ地形面でも流水が早く来なくなった場所では厚く、遅くまで流水に見舞われた場所では降灰しても流されたため、薄くなっていると推定される。段丘面との対応についてみると、層厚が八メートルから一二メートルを示す範囲は武蔵野Ⅰ面、六メートル以下の土地は武蔵野-立川中間面である。南側に分布する、八メートルから九メートルの場所は武蔵野Ⅱ面である。武蔵野Ⅰ面と武蔵野Ⅱ面の境界は、地表面では判断できないが、関東ローム層の層厚で推定することが出来る。同じように、武蔵野Ⅰ面と武蔵野-立川中間面の境界である段丘崖は、青梅街道駅より西側では、青梅街道から北方へ一五〇メートルから二〇〇メートル離れた場所で、東側では都立小平高校付近を通るが、段丘崖は不明瞭である。
図2-5
図2-5 小平市内における関東ローム層の層厚
黒点は地質柱状図の地点。等厚線は1m間隔で、数字の単位はm

 図2-6は、関東ローム層の下位に堆積している武蔵野砂礫層の、表面を示した等高線図である。等高線が東西に延びる波状になっているが、低い場所は遅くまで流水に見舞われた場所である。現在の多摩川の河原でも、河原一面に水が流れているのではなく、河川敷があれば中洲(なかす)もある。武蔵野砂礫層が地表面であった頃、当時の多摩川の河原は数キロの幅で、流路は自由に蛇行(だこう)を繰り返し、あるいは網状になって東方の東京湾へ流れていたことであろう。層厚約一〇メートルの砂礫層の中で、武蔵野砂礫層は上部を占め、下部は広義の東京層と考えられるが、詳細については不明である。
図2-6
図2-6 小平市内における武蔵野砂礫層の表面地形
黒点は地質柱状図の位置。等高線は1m間隔で、数字の単位はm

 図2-7には、小平市の基盤となっている上総層群の表面が、等高線で示されている。上総層群の上位に堆積する砂礫層は、周辺の地形発達史から推定すると、上部は武蔵野砂礫層であるが、下部はそれよりも古い下末吉面などを形成する、時代が異なる砂礫層が累積していると考えられる。砂礫層の層厚は、一〇メートルから一五メートルである場合が多い。
図2-7
図2-7 小平市内における上総層群表面の地形
黒点は地質柱状図の位置。等高線は1m間隔で、数字の単位はm

 昭和五〇年、津田町の下水道工事現場において、地下約二〇メートルの位置にある、上総層群の一部の凝灰(ぎょうかい)質粘土層(層厚約七〇センチ)から、丸太の破片一三試料が採取された。その中でマツ科に属するトウヒが一〇試料(全体の約七七%)と最も多く、残りはヒメバラモミ(マツ科)・ハンノキ(カバノキ科)・ハルニレ(ニレ科)であった。トウヒは冷涼地(れいりょうち)の樹木で、現在の関東山地では標高一、三〇〇メートルから二、六〇〇メートルに生育している。ヒメバラモミも冷涼地に生育する樹木で、現在の関東山地には生育せず、八ケ岳山麓から南アルプスにかけての標高一、一〇〇メートルから二、〇〇〇メートルに生育している。ハルニレは、現在の関東地方では標高二〇〇メートルから一、五〇〇メートル付近に生育している。ハンノキは生育範囲が広いため、気温環境は特定できない。これらのことから、試料を包含する凝灰質粘土層は、現在よりはるかに気温が低い地質時代(氷期)に堆積したと考えられる。四万八千年前以前と言う年代測定結果が得られているが、詳細については不明である。