慶安二(一六四九)年七月 M=7・0 武蔵・下野(しもつけ)・川越で大地震。町屋七〇〇軒ほどが大破。
元禄一一(一六九七)年一一月 M=6・5 鎌倉で鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の鳥居が倒れ潰家があった。江戸城の石垣が崩壊する。
安政二(一八五五)年一一月 M=6・9 江戸下町で特に被害が大きかった。地震後三〇余か所から出火し、焼失面積は二・二平方キロに及んだ。潰れ焼失一万四千余戸、死者四千余。
明治二七(一八九四)年六月 M=7・0 青森から中国・四国地方まで地震を感じた。東京・横浜の被害が大きかった。神田・本所・深川で全半壊多く、東京で死者二四名、川崎・横浜で死者七名。鎌倉・浦和方面にも被害があった。
大正一二(一九二三)九月一日 M=7・9 関東大地震 東京で観測した最大振幅一四~二〇センチ、震災後火災が発生し被害を大きくした。全体で死者・不明者一四万二千余名、家屋全半壊二五万四千余戸。多摩地区でも多大な被害を受けている。例えば、玉川上水・羽村取水堰(しゅすいせき)の対岸一帯では山腹が全面的に崩壊した。震央(しんおう)から見て、小平市より離れた地域で大きな被害が発生しているが、被害状況について計画的な調査は行われていない。そこで、不十分ではあるが、入手した範囲で被害状況図を作成した(図4-2)。
図4-2 関東大震災に伴う被害 1.死者 2.建物の全壊 3.ガケ崩れ・擁壁の崩壊 4.泥水の噴出 5.地割れ |
小平市はもちろんのこと、周辺地域においても、当時、人口は少なく、また、集落を構成する家屋も少なかった。集落の多くは、街道に沿って、あるいは狭山丘陵の麓(ふもと)に分布していた。図を見ると建物の全壊は五五か所で見られ、小平市でも三か所が記録されている。地形・地質条件とは関わりなく、ほぼ全域に分布することから、どこの集落でも震動による数軒の倒壊があったと推定される。