はじめに

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 本書地理編でも記述したように、小平市域はほぼ全域が平坦な、自然の河川に乏しい地域であり、玉川上水が開削(かいさく)され、小川村の開発が行われるまでは、長い間人の居住しない荒れ地であったと考えられていた。
 本『小平市史』に先行する昭和三四年刊行の『小平町誌』の「原始時代」とした部分では、「原始時代 武蔵国に人が住みついたのは、われわれの記憶にうすれてしまったはるか古い原始時代のことであった。おそらく数千年の昔のこと、人々はあちらの谷あい、こちらの森かげに一定の集団をなして居住したであろう。それらの人の残した生活の跡は、地下に埋もれて遺跡や遺物として今日わたしたちの目にふれる。考古学の研究によれば、日本の原始時代は縄文式文化時代、弥生式文化時代、古墳文化時代を経て歴史時代に入るという。もちろん、武蔵野とてこの例外であるはずがなく、武蔵国に分布する各時代の多くの遺跡が無言のうちに物語るように、人々は生活に適した環境を選んで住居をさだめ、それぞれの時代に特有な生活様式と社会組織とを作って生活をつづけ、やがて日本の歴史の大きな流れの中につつみこまれていったのである。」と述べるにとどまっている。小平市内における考古資料の確認に先行する時期の刊行でもあり、小平市内における遺跡についての言及は見られない訳であるが、いわゆる「岩宿(いわじゅく)の発見」として知られる、縄文時代に先行する旧石器時代の存在が発掘調査によって確認されてから一〇年以上経過しているにもかかわらず、ここではそれに触れていない。
 小平市の考古資料が公式に提示されたのは昭和四〇年三月発行の文化財保護委員会『全国遺跡地図』(東京都)上の分布図であるが、その詳細が明らかにされたのは、後述する『北多摩文化財総合調査報告』第二分冊である。
 その後さらに詳細なデータが公になったのは、昭和四九年三月三〇日発行の『東京都遺跡地図』である(以下、昭和四九年度版遺跡地図と略す)[図0-1]。
図0-1
図0-1 『東京都遺跡地図』(昭和49年度版)より作成

 この地図は東京都内で昭和四七年度末までに確認されていた遺跡を、国土地理院発行の二万五千分の一の地形図上に落とし、名称、種別、所在地、立地、遺跡概要、区市町村ごとに遺跡ナンバーを与えるとともに、東京都の通しナンバーも付与したものである。これを見ると、昭和四七年度末には小平市にはすでに三つの遺跡が存在している。一方、平成二四年現在の東京都遺跡地図情報(http://www.syougai.metro.tokyo.jp/iseki0/iseki/index.htm)は、平成二二年三月刊行の『東京都遺跡地図』[図0-2]に基づくものであるが(以下、平成二二年度版遺跡地図と略す)、ここには小平市の遺跡が四か所記載されている。
図0-2
図0-2 『東京都遺跡地図』(平成22年度版)より作成

 小平市内での考古学的な知見が皆無であった『小平町誌』刊行時から一〇数年後の昭和四七年には市内に遺跡が三か所存在していたが、その後の約四〇年間で遺跡の数は一か所しか増加しなかったことになる。
 以下、第一章で述べる鈴木遺跡は、旧石器時代の大規模な遺跡として学史的にも重要な遺跡として評価されているが、現在の石神井川という水資源が立地させたものであり、小平市域にあっては例外的な存在である。第二章で述べる八小遺跡の「竪穴(たてあな)住居」の発見は、後述するように、現在では決して集落のような形で多数の住居が存在したとは考えられておらず、例外的な存在であったといえる。第三章~五章で述べるその他の「遺跡」も、小平市域にあってはきわめて例外的な存在であり、それらを綴り合わせることによって小平市域の歴史を考古学的に叙述することはできないのである。
 このように、周辺市に比して小平市内においては「遺跡」はきわめて例外的な存在である。したがって、『小平市史』考古編では、小平市における調査成果としての考古資料を列記して、その歴史的叙述を行うのではなくて、むしろその特異な存在である遺跡が、いかに認識されて来たのか、そして埋蔵文化財としての位置づけも含めた文化財行政の一環としていかに対応されてきたのかについての、いわば考古誌的な叙述を行うこととしたい。