図1-1 回田遺跡の出土遺物(No.1)
肥留間博氏によれば、調査は昭和四二年の夏に実施され、大沢氏が遺物を表採された石神井川谷頭部に所在した崖の付近にトレンチ〔発掘調査用の溝〕を設定して実施したもので、東京学芸大学考古学研究部のメンバーの参加者は四、五人であったとのことである。この調査が、昭和四九年度版遺跡地図備考欄の「昭和42吉田格調査」であり、小平市内で実施された最初の考古学的な発掘調査である。これによれば、遺跡の所在地は石神井川の最奥の谷頭にあたる地点で、約四〇〇m下流の小金井カントリー倶楽部内には湧水(ゆうすい)があるが、「現在遺跡付近には湧水がみられない。しかし、大雨が降ると湧水するとのことであり、かつては湧水があったものと想像される。」「遺跡の標高は約七二m、比高約六mの谷頭の南面した台上の縁辺部(えんぺんぶ)より斜面にかけて、剥片(はくへん)がわずかに散布し、遺跡の範囲はおよそ三〇〇m2ぐらいかと思われる。」とのことである。地形や所在地に関する記載から、この回田遺跡が現在の鈴木遺跡に相当するものであることはいうまでもないが、この『資料報告』には掲載のない所在地の位置図を、その二年前に刊行された『八小概報』所載の地図[第三〇図]上で見ると、「2廻田遺跡」とされた地点が、表記上のわずかな差異はあるものの「回田遺跡」をあらわすものと考えられる。
ここで問題となるのは、この2の数字が、『資料報告』で述べられているような旧回田新田ではなく、旧鈴木新田に所在する部分に位置することである。遺跡の名称は本来字名によって命名されるが、基本的に江戸時代に開発された新田を母体とする小平市内では、字名のない地域が多く、このため鈴木遺跡も新田名に由来する町名をもって遺跡名としているのである。この点を大沢氏に直接うかがったところ、当時の遺跡周辺は、現在のように開発が進んでおらず、遺物を発見した場所の新田名の確認が難しく、誤認してしまったとのことである。したがって、鈴木遺跡は大沢氏の表採の当初から旧鈴木新田において発見されたこと、最初の発掘調査も鈴木新田で行われたものであることが確認でき、そういう意味からしても、当初の「回田遺跡」から「鈴木遺跡」への名称の変更は、学史的にも妥当なものであったのである。