③遺物と地層

71 ~ 73 / 881ページ
 調査時の所見によれば、遺物が確認された部分の地層は「斜面近くでは、腐植土層(ふしょくどそう)は浅く約二〇cmでソフトロームになる。ソフトローム下約五cmの深さより、長径二〇cmぐらいの硬砂岩質(こうさがんしつ)の焼けた礫(れき)が発見され、その近くから石槍(せきそう)と剥片が数点発見された」とのことであり、調査が台地上から崖に下る変曲点(へんきょくてん)付近に設定された調査区で実施され、ソフトロームの下約五cm、すなわちⅣ層ハードローム内の焼礫(やけれき)の付近から遺物が発見されている。
 遺物については、五点が紹介されているが、そのうちの四点は大沢氏が表採したもので、一点の石槍がこの時の発掘調査で発見されたものである。『資料報告』には「石槍(図1-1の1)は、柳葉形(りゅうようけい)を呈し、長さ七・五cm最大幅二cm、先端は細く鋭利になっているのが特徴で、中央部近くの幅が広くなっている。石質は頁岩(けつがん)である。
表は背が高く、断面では三角形に近い。厚さ〇・七cm、湾曲し、縦長剥片(たてながはくへん)から製作されたと思われる。両面ともに押圧剥離(はくり)によって、細かい調整が行われている。この様な石槍に最も近似したものとしては、東京都瑞穂町六道山(ろくどうやま)遺跡から出土したものがある。」との記載がある。
 一方大沢氏が採集した資料については、「2は石槍の基部のみで、現存部長さ三・七cm、最大幅二cmであり、石質は玄武岩(げんぶがん)である。5も先端が欠損し、右側縁(みぎそくえん)が破損しているが石槍と思われる。長さ五・二cm、基部は厚くなり、石質は玄武岩である。3はスクレイパーの破片で一端に細かい使用痕(こん)がみられる。石質はチャートである。4は石質チャートの縦長の剥片である。長さ七・五cm、最大幅三・五cm、断面は梯(はしご)形を呈し、厚さ〇・六cmと薄く、刃部に微細な刃こぼれの如く思われる痕がみられる。石刃として使用されたのではなかろうか。」と述べられている。
 また、その資料的な位置づけについては「回田遺跡発見の石槍は有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)を伴っていないが、その形態と製作手法からして、石槍としては最も新しい時期のものと思われる。」との考察がなされ、年代的にも妥当な評価が下されていたことがわかる。
 なお、この石槍とは別にホルンフェルス製の槍先形(やりさきがた)の尖頭器が江戸東京たてもの園に所蔵されているが[図1-2・3]、平成二年に資料調査を行った際には、これに「小川三番」との注記があり、小川三番遺跡の遺物に「回田遺跡」との注記がなされるという誤りが認められたため、訂正を要請し、現在では「鈴木町一丁目」と注記されている。小川三番遺跡およびその遺物については第五章で述べるが、市内で最も早く昭和三〇年代後半に偶然発見された遺物であることもあり、『資料報告』でもわずかながら言及がなされている資料である。

図1-2 回田遺跡の尖頭器


図1-3 回田遺跡の尖頭器(江戸東京たてもの園 所蔵)