現在鈴木遺跡資料館に遺されている膨大な写真群の中には、この予備調査の際に撮影されたと思われる三五mmの三六枚撮りモノクロネガフィルムが三本存在する。フィルムはベタ焼きとともにコンタクトアルバムに、撮影順とは異なる順番に貼付されているが、フィルムの前後のコマから時間軸に沿って排列することができる。アルバムに書き込まれたキャプションから、遺跡の遠景が「農林中央金庫より撮影」され、次いで最低三グリッド〔発掘調査用の穴〕が掘り下げられ、後述する江戸時代の水車関連の遺構や礫群が発見され、最後に石器が出土したことがわかる。
石器の出土状況を示すアップの写真[図1-4]には、折尺(おりじゃく)とともにラベルが写し込まれているが、それには「八小回田」、「740701」、「Y-1,X(-1)」、「IIu」、「S-1」等の文字が見られる。これらの文字によって、これまで明らかでなかった多くのことを確認することができる。
図1-4 鈴木遺跡予備調査遺物出土状況 |
まず「740701」は一九七四年七月一日をあらわし、予備調査の最終日に遺物が出土したという証言と符合する。「Y-1,X(-1)」は試掘用(しくつよう)グリッドをあらわし、「IIu」はⅡ層下部、「S-1」は「S-1」から「S-11」まであるところから、同グリッドで一一点の遺物を確認したことをあらわしているものと思われる。
遺跡の名称を示すと思われる「八小回田」の文字は、予備調査の時点で、この遺跡の性格が明確でなかったことを伺わせる。つまり、水車関連遺構をきっかけに行われた予備調査であったため、八小遺跡の広がりの延長に位置づけられるものであるのか、あるいは「回田遺跡」の広がりの延長に位置づけられるものであるのかが明瞭でないまま調査を行うことになったことをあらわしているのではないか、ということである。すでに前述の発掘調査も行われ、またこの時点で発行されていた遺跡地図には、「回田遺跡」が掲載されていたにも関わらず、試掘調査も行われないまま造成に入った背景には、埋蔵文化財に対する認知が低かっただけでなく、「回田遺跡」の面的な広がりが過小評価されていたとも考えられる。
予備調査時の写真の確認によって、鈴木遺跡の発見(正確には再発見)は、これまで発行された各種資料で述べられて来たような昭和四九年六月ではなく、厳密にいえば、昭和四九年七月ということになる。
以上のような経過を経て鈴木遺跡はその存在が再確認され、以後様々な原因で発掘調査が行われることとなった。以下、これを四期に区分して概観していきたい。