①時代相

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 鈴木遺跡において出土する遺物の大半を占めるのは旧石器時代の所産である。
 わが国における旧石器時代の文化については、ヨーロッパの時代区分との混同を避ける意味で旧石器時代の名を使わず、その存在が昭和二四年、初めて考古学的に確認された群馬県の遺跡の名から岩宿(いわじゅく)文化と呼び、その時代を岩宿時代と呼ぶ場合もある。またかつては先土器時代、先縄文時代、無土器時代などと呼ぶ場合もあった。それぞれの呼称や位置づけも無意味ではないが、本稿では、現在最も通例となっている旧石器時代を用いている。
 さて、旧石器時代は地質学上約二〇〇万年前から約一万二千年前の更新世(こうしんせい)と呼ばれる時代に属し、寒冷で氷河の発達した氷期と温暖で氷河の後退した間氷期(かんぴょうき)とが交互に訪れていた氷河時代とも呼ばれる時代であった。旧大陸における考古学的な時期区分としての旧石器時代は、前期・中期・後期の三期、もしくは前期・後期の二期に区分されるが、現在のところ日本列島に展開した旧石器時代文化は、いずれの分け方においても後期にあたる、およそ四万年前の石刃(せきじん)技法〔石材から両側縁(りょうそくえん)が平行な縦長の石材等同形の素材を連続的に剥離する技法〕の成立以後のこととされており、長野県竹佐中原(たけさなかはら)遺跡、岩手県金取(かねどり)遺跡、長崎県入口(いりぐち)遺跡、千葉県草刈(くさかり)遺跡等いくつかの候補の遺跡名が挙がってはいるものの、確実にこれより前に遡ると認定されている遺跡はない。
 この後期旧石器時代と呼ばれる時代には、最終氷期であるヴュルム氷期に位置づけられ、約二万年から約一万八千年前には氷河が発達して海水面が低下し、北海道は大陸と地続きになり、津軽海峡や朝鮮海峡も陸化には至らないものの、かなり狭まったものと考えられている。ヴュルム氷期より前のリス氷期にはさらに海水面が低下してこれらの海峡にも陸橋ができ、地続きであったとされる。当時の動物相(どうぶつそう)は、北方からのマンモス動物群が東日本一帯に広がるとともに、南方から中国の黄土動物群に由来するナウマンゾウ、オオツノシカといった温帯系の動物が北海道中部にまで北上していたとされ、長野県野尻(のじり)湖底立(たて)が鼻(はな)遺跡からはナウマンゾウの解体跡や、オオツノシカ等の動物化石が出土している。これらの動物のうち、オオツノシカは縄文時代の初頭までの棲息(せいそく)が確認されるが、ナウマンゾウ、マンモスゾウは約一万年前に絶滅しており、人類の乱獲によるものともされている。
 関東平野では関東ローム層、赤土と呼ばれる火山灰由来の土壌が発達しているが、これは今からおよそ六万年前から活発に活動していた、西の富士箱根火山帯や北関東の赤城山、榛名山(はるなさん)、浅間山等の噴火に由来するものであり、下から多摩ローム層、下末吉ローム層、武蔵野ローム層、立川ローム層と大きく四つに区分されている。
 鈴木遺跡の所在する武蔵野台地は、武蔵野面と呼ばれる段丘面であり、基盤の成増礫層の上に武蔵野ローム層と立川ローム層が堆積し、現在のところ旧石器時代の遺物が発見されるのは立川ローム層内だけである。この立川ローム層は、考古学的な調査の進展の過程で、その色や硬さ、手触り等を基準に表土の黒色土(こくしょくど)までを含め一二層に分けられることが多く、上からローマ数字で表記される。すなわち、最上部の表土黒色土がⅠ層、黒色土とローム層との境界域の層が漸移層(ぜんいそう)とも呼ばれる暗褐色(あんかっしょく)のⅡ層であり、ここまでの地層は概ね縄文時代以降の堆積層である。以下ソフトロームのⅢ層、ハードロームのⅣ層、第一黒色帯(BB1)のⅤ層、姶良丹沢(あいらたんざわ)パミスのⅥ層、第二黒色帯(BB2)上部のⅦ層、第二黒色帯下部のⅨ層、以下Ⅹ層、ⅩⅠ層、ⅩⅡ層となる。このうちⅣ層は通常上位Ⅳa層と下位Ⅳb層とに二分され、上位が最上部黒色帯(BB0)に認定できる場合もある。またⅩ層はa~cに三分されるのが現在のスタンダードである。ちなみにⅧ層は台地上では確認できない場合が多いが、谷に向かう傾斜が入った地点等でⅦ層とⅨ層との境界にブロック状に認められる場合がある。
 これらのローム層中には、人工品である石器等の遺物以外にも花粉化石が含まれているが、その分析は鈴木遺跡でも試みられ、また立川段丘面の低湿地性遺跡である小金井市野川中洲北(のがわなかすきた)遺跡では石器、礫群といった台地上の遺跡に多く見られる資料とともに、泥炭(でいたん)層の中から、カラマツ・トウヒ・チョウセンゴヨウ等の針葉樹や花粉の化石が発見され、当時の植生や自然環境、気候を窺わせる資料となっている。これらを含めた多くの植物化石や花粉分析の結果から、旧石器時代の東京周辺は、平均気温が現在よりも五~七度低い標高一五〇〇mの亜高山帯に相当し、低い灌木(かんぼく)と針葉樹林の混在する植生であったと推定されている。また低い海水面のため、海岸線は房総半島の先端まで後退し、台地上を流れるいくつもの川の浸食によって、谷が形成されていった。