⑤成果と課題

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 鈴木遺跡における一連の発掘調査の成果は、比較的まとまった面積を調査したため、旧石器時代遺跡の主要部の様相を明らかにし、当時における人間活動の場(遺跡)の形状や石器文化の遷り変りを詳細に究明し得たことと総括できよう。またその後の周縁部を含めた地域における範囲確認調査など、小規模ながら地道に継続されて来た調査によって、遺跡の形状やその中における活動痕跡の濃淡のありようも明らかになったことにより、大規模な鈴木遺跡の全体像がおぼろげながら理解できるようになった。
 調査研究のレベルでは、鈴木遺跡の「発見」から報告書の刊行が盛んに行われた一九八〇年代には、都内では鈴木遺跡を含め石神井川水系や野川水系で旧石器時代を対象とした調査、報告の事例が増加した。また鈴木遺跡と相前後するように小金井市西之台(にしのだい)遺跡B地点、国分寺市多摩蘭坂(たまらんざか)遺跡、府中市武蔵台(むさしだい)遺跡など、この時代を研究する上で欠かせない重要な資料が続々と刊行され始め、鈴木遺跡も多くの知見や試みでその一翼(いちよく)を担った。その後旧石器時代の調査研究は、次第に東北地方を中心に古さを追求して行く方向に進むかに見えた。これが平成一二年のいわゆる「旧石器ねつ造」の発覚によって根底から覆(くつがえ)され、都内でも多摩ニュータウン四七一-B遺跡での再検討等が行われ、鈴木遺跡では最古級の資料を出した御幸第Ⅰ地点の重要性が再認識されてきている。
 遺跡の保存をめぐる状況としては、平成二四年現在、鈴木遺跡の前身である回田遺跡の試掘が行われてから四五年という月日が流れ、埋蔵文化財を取り巻く環境も大きく変わってきている。鈴木遺跡は、昭和五八年三月三一日付で小平市史跡第二号に指定され、鈴木遺跡資料館はその後、位置を南に移してその地歩(ちぶ)を固めてきたが、平成二四年三月二一日には、保存区および現在の鈴木遺跡資料館敷地が東京都指定史跡として指定されるに至り、遺跡保護へのさらなる足がかりが与えられた。この両地点の出自(しゅつじ)を求めるなら、鈴木遺跡の初期の調査の過程で、小規模ながら開発から除外して設けられた保存区や、調査や整理の基地として建てられたプレハブを母体とする鈴木遺跡資料館の設置にあり、単に開発に先立つ記録保存としての発掘調査によって遺跡を破壊することに甘んじなかった、当時の調査指導者の見識を大いに反映したものであると評することができる。
 近年土地の価格が安定してきたことを反映してか、前節で述べたように、新たな開発の波が遺跡周辺に及びつつある。旧石器時代の資料上も、そして学史的にも貴重なこの遺跡の保存がいかに行われていくか、行政はもちろん、地域住民をはじめとする市民の認識が改めて問われる局面にさしかかっているのが現状である。