①時代相

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 今から約一万二千年前になると、わが国では新石器時代の縄文時代に移行する。この時代は旧石器時代と同様、自然物採集が生活の基盤であったと考えられるが、完新世(かんしんせい)の温暖な気候条件のもとで定住性が高まっていった。食料はトチノミやドングリ、クリ等の堅果(けんか)類の採取が主で、ヤマイモ、ユリ等の地下茎や球根類も利用された。集落の周辺で堅果を付ける樹木を保護したり、植え付けたりするような半栽培、あるいはリョクトウ、エゴマ等を対象とした原始的な栽培、さらに一部では稲作も始まっているが、あくまでも副次的な位置づけであったと考えられている。狩猟には飼育したイヌをともない、弓矢で小動物を狩り、陥穴でシカやイノシシを捕らえた。海辺では製塩や貝類の採集が盛んに行われ、カツオやマグロ等の漁労(ぎょろう)、遡上(そじょう)するサケ、マスの捕獲も行われた。
 この時代を最も特徴づけるものは、様々な器形や文様をもつ縄文土器の存在であり、土器型式の編年から縄文時代は、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期と大きく六期に区分される。定住性の生活が進展したことによってこうした持ち運びに適さない生活物資が盛んに作られるようになったともいえ、また煮炊きのできる土器の存在が、これまで直接は食べられなかったものを加工したり、アク抜きして可食部を分離したりできるようになって可食範囲を増大させ、さらに殺菌消毒効果と食物の軟化によって乳幼児、病者、高齢者の生存率を高める効果もあり、人口が増大したと考えられている。
 そうした生活の変化が、精神世界を発達させ、土偶(どぐう)・石棒(せきぼう)をはじめとする各種の非実用的な遺物や、抜歯・叉状(さじょう)研歯を含めた各種の装身や、腕輪・耳飾りといった装飾が見られるようになるのもこの時代の特徴である。
 遺構としては、地面を数十cm掘り下げ、上屋の屋根を地面にまで葺(ふ)き下(お)ろして土堤(どてい)をめぐらせた竪穴住居が主であるが、草創期を中心に洞穴の利用もあった。前期になって定住生活が主体となると、住居は安定した集落の形で把握されるようになり、墓穴を中央に置き、周囲に竪穴住居や平地式の建物を配した環状集落が形成されるようになる。一方で狩猟用の施設である陥穴は、おそらくは転落等の危険もあって集落に伴って発見されることはなく、その存在は生活の場から一定以上離れていることを示唆(しさ)するものとなっている。