3 江戸時代後期 -水車遺構-

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 すでに述べたように、鈴木小学校の建設に先立つ造成に伴って鈴木遺跡が「発見」された経緯は、江戸時代後期の水車小屋に関連する水路跡等の遺構が存在したためであるが、発見の後、旧石器時代の発掘調査を行う前に実施された水車遺構を対象として行われた調査は、江戸時代を対象とした考古学的な発掘調査・報告の事例としても、学史的に極めて重要な足跡を残すものとなった。
 江戸時代を考古学的な調査研究の対象とすべきだとの提言がなされたのは、昭和四四年の日本考古学協会第三五回総会における中川成夫(しげお)氏と加藤晋平氏による研究発表である(中川・加藤一九六九)。しかし、これが本格的に始まるのは、一九八〇年代後半の都心部における再開発にともなって、都市「江戸」が発掘調査されるようになってからとされている。こうした「江戸」の発掘調査の最初の成果として知られている文京区動坂(どうざか)遺跡(都立駒込病院敷地内遺跡)の発掘調査は昭和四九年一一月から一二月にかけて試掘調査、翌昭和五〇年四月から七月まで本調査が実施され、発掘調査報告書は昭和五三年に刊行されている。まさに鈴木遺跡での江戸時代遺構の調査とほとんど同じ時期なのである。しかもこの時期に実施された農村部における江戸時代を対象にした遺跡の発掘調査は、八王子市松山廃寺(しょうざんはいじ)のような特殊な事例を除くと、類例はほとんど見られない。その下に旧石器時代の遺跡の存在が考えられていたからこそ調査が行われたとはいえ、これに先立って江戸時代の遺構の調査をも行うべきだとの認識をもって調査を実施した当時の鈴木遺跡調査会のメンバーには敬意を表する。
 この調査が、地域における極めて重要な知見をもたらしたことは言うまでもないが、旧石器時代の華々しい成果の陰に隠れ、ほとんど注目されていないのは残念である。