水路をはじめとする水車関連の遺構から発見された遺物は、石臼(いしうす)の破片を除くと、水車遺構を伺わせるものはなく、大部分は江戸時代中期以降の陶磁器が中心であった。それらの中には次節以降で述べるような特殊な資料も含まれていたが、大部分は明治時代の型紙印版刷(かたがみいんばんずり)、銅版刷(どうはんずり)の丸碗(まるわん)や、大正から昭和初期と思われる小形の湯飲み等で、同一器形、同一意匠(いしょう)の製品が数十個体見られるものもあったことから、婚礼や葬儀などの人寄(ひとよ)せの際に用いる多量の碗や椀、膳類を地域で共同管理する膳椀倉(ぜんわんぐら)が付近にあり、一括して投棄されたものと考えられる。