この水車に関しては、発掘調査報告書の作成段階で関連すると考えられる古文書や村絵図(むらえず)が渉猟(しょうりょう)され、考古学的な知見との対比が試みられている。たとえば幕末の安政二年(一八五五)正月の「奉頂戴御金之事(ちょうだいたてまつるおんかねのこと)」は、定右衛門所有の水車が「焔硝合薬搗立所(えんしょうごうやくつきたてしょ)」すなわち火薬製造用の水車に転用されたのにともない、この水車で水車渡世(とせい)をしていた助右衛門(すけえもん)が金子(きんす)を受け取った際の受領書であるが、文中で早々の引き払いが命ぜられている。同じ安政二年一二月には周辺の新田の村役人が連名で代官所に再稼働の中止を求める歎願書「乍恐以書付奉歎願候(おそれながらかきつけをもってたんがんたてまつりそうろう)」が出されており、この焔硝合薬搗立所がこの年の一〇月には焼失したことを知ることができる。また、この歎願が功を奏したものであるかは明らかでないが、年号不明ながら、定右衛門による願書「乍恐以書付願上候(おそれながらかきつけをもってねがいあげそうろう)」は、水車がその後の再建がないまま持ち主の定右衛門にそのままの形で返還されたことを窺わせるものである。したがって焔硝合薬搗立所は一年に満たない存続期間であったことが推定される。その後再建された水車は、東京府の水車台帳をもとに編纂(へんさん)された『近代東京の水車』(鈴木(編)一九九四)によれば、名称は深谷水車、水輪の大きさは直径二丈二尺(約六m六〇cm)あり、明治四一年まで操業していたと言う。地元の方からの聞き取りによれば、水車廃業後も第二次大戦中までは水路が残って水をたたえていたというが、第二次世界大戦中に食糧増産の目的で埋め立てられたといわれる。したがって遺物の年代は江戸時代後期から第二次世界大戦中までと考えることができる。
水車遺構から出土した陶磁器類の大半は、出土遺構や出土状況は明らかでない。しかしながらこうした出土陶磁器の中には詳細に検討すると、地域の歴史等を考察する上で極めて興味深いものが含まれていた。