②関連資料

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徳川家康所用薬壷
 彰考館(しょうこうかん)徳川博物館が所蔵する大形の棗(なつめ)型の容器は徳川家康所用薬壷(やくこ)と伝える。その上面には「烏□圓」と書かれた貼り紙が貼られており、中央の文字は直交して貼られた別の貼り紙によって隠されているが、「烏犀圓」であろうと推定されている。この別の貼り紙には「神君御譲之(しんくんおゆずりの)よし醫臣(いしん)申し上げ侯 □」の文字が見られる。この容器の内容物については、国立医薬品衛生研究所生薬部により分析が試みられ、含有生薬(がんゆうしょうやく)の確認が行われている。

久能山東照宮博物館所蔵『朝鮮版和剤局方』
 前項の分析において、対比する標準粉末の基準となったのが宋代にまで遡るという『和剤局方(わざいきょくほう)』である。久能山東照宮博物館が所蔵している朝鮮の銅活字本は、宇喜多秀家が朝鮮の役で入手して日本に持ち帰り、のちに夫人の奇病を治した医師曲直瀬養安院正琳(まなせようあんいんしょうりん)に遣(つか)わされ、これが将軍秀忠に献じられ、さらに秀忠より家康へ贈られたとの由緒(ゆいしょ)をもつという。『皇國名醫傳(こうこくめいいでん)』には「神祖晩節尤留心於済生、據和剤局方、製良薬、以賜諸臣」とあって、徳川家康がこの「和剤局方」に拠って良薬を製して臣下に与えていたことが知られると言う(小林一九九五)。

薬看板[図1-28]
図1-28
図1-28 「烏犀圓」の置看板(内藤記念くすり博物館蔵)

 内藤記念くすり博物館には金沢の「烏犀圓」の看板が多数存在するが、一点のみ「肥後」の地名の入る看板が存在する。小形のたて看板で、右側に「登録商標」と右横書きされ、「烏犀圓」と振り仮名つきで大書されている。その左横には、「肥後熊本塩旭町裏一番新市場通り」「製薬本家 徳光屋 渡邉敬衛門」などと書かれている。「肥後」と「渡邉」が鈴木遺跡出土の「烏犀圓」銘合子蓋に見られる文字と共通することから、この徳光屋製の烏犀圓の容器であった可能性が高い。
 九州北部と中国地方以外の出土例が江戸東京に限られているのは、金沢をはじめ多くの生産者が各地にあったため、基本的に広域には流通し得ない商圏を形成していた可能性が指摘できる。その中で鈴木遺跡の所在した鈴木新田は、明治二年~四年には佐賀藩出身の古賀一平(こがいっぺい)を知事とする品川県に所属し、御門訴(ごもんそ)事件に関与した新田の一つでもある。付近の田無村まで県吏(けんり)が来訪した記録もあり、九州との関係がわずかではあるが窺われる。