④新聞記事

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 前項の写真資料に関する日時に基づき、昭和一五年二月一一日前後の新聞記事を調べた。以下、関連する主要な記事を引用し、a・b・c・dの符号を付する。なお、ここでは基本的に新字体を用い、見出しは『 』に入れた。
 a東京日日新聞府下版(昭和一五年二月八日)
『立川当局憤慨 府に誠意なしと』 立川町会紛擾(ふんじょう)の原因となった滞納整理は最初府当局からの通牒(つうちょう)で「三月末日までに完納すべし」とあつたので同町ではそのつもりで整理に当たつてゐたところ先月下旬突然「二千六百年記念事業として二月十一日までに完納を期すべし」と朝令暮改(ちょうれいぼかい)式の通牒に接したので(中略)やむを得ず徴収不能の分を欠損とし可能の分を関係者の代納によつて完納の手続きをしたところ今度は「紀元節後でなければ起債に関する手続きは出来ぬ」と誠意のない回答に接したため町当局は対町会策について全く窮地(きゅうち)に陥つた(後略)

 b東京日日新聞府下版(昭和一五年二月八日)
『三多摩に揚る凱歌 全市町村が租税完納』 積弊の滞納を挙つて一擲(いってき)し三多摩が全部市町村税完納といふ成績を挙げた 即ち昨年二月十一日の佳節には郡部廿一町村、島嶼(とうしょ)五村、同四月十七日の自治記念日には郡部四村、同十一月三日の明治節には郡部十三町村を完納町村として表彰した府では、其後残りの八市を始め郡部廿六町村、島嶼六村に於ても完納の日を早く実現するやう督励した結果やうやくその目的を達成したので、来る皇紀二千六百年の紀元節を卜(ぼく)しこの最後の完納市町村を表彰することになった(後略)

 c三多摩読売(昭和一五年二月一一日)
『村長が二千余円ポンと投出す 小平村表彰の蔭にこの佳話』 北郡小平村は十数年来滞納整理をせずこれが為(た)め相当数の滞納があり村治にも影響を及ぼしているうへ時局下面白くないと昨年末から滞納整理に着手したが村内極貧者中には同情すべき者があるからとて村長親心を見せポンと二千余円を投げ出し極貧者(ごくひんしゃ)の分を立替へ輝く完納村となり今十一日府知事から優良村として表彰され誉れの完納優勝旗を授与されることになつたもの、右について小野村長は語る 小平村は難治(なんち)村とまで言はれ相当困難な村で前回村長まではこの滞納整理が断行できなかつたのです、私もどうかと思つたが事変下のことでもあり一大決心の下に行ひましたが村民一同よく理解され進んで完納された訳でこゝに晴れの完納旗が授与されることになつたのです【写真は村長小野熊太郎(略)】

 d三多摩読売(昭和一五年二月一二日)
『梅花と薫(かお)る篤行(とくこう) 盛儀に輝やく 佳節(かせつ)に晴れの表彰式』 輝く紀元二千六百年の慶(よろこ)びに満つる十一日午前十一時、東京府では丸ノ内商工奨励館(しょうこうしょうれいかん)講堂で七百萬府民の模範として選ばれた栄えある顕彰(けんしょう)者の表彰式を挙行した
この日表彰の光栄に浴した慶びの人は既報の如く西多摩郡平井村長森田昌一郎氏外十三名の地方自治功労者、八王子市外卅二ヶ町村の諸税完納優良町村、(中略)の個人六十名 市町村卅三、学校二、団体卅三で(後略)

 記事dに「八王子市外卅二ヶ町村の諸税完納優良町村」との記述があるが、これがおそらく図1-31の「地方奨励表彰式場」で挙行されたものを示していると考えられ、したがってこの「八王子市外三十二ヶ町村」のうちの一村が小平村であったと思われる。また、その会場は図1-32記載の「東京府廳」ではなく、「丸ノ内商工奨励館講堂」であったことがわかる。この商工奨励館は大正一〇年(一九二一)竣工(しゅんこう)の東京府商工奨励館で、現在の東京都千代田区丸の内三丁目付近に所在したものである。記事aは立川町での滞納整理に関するものであるが、これを見ると完納の達成が「府当局の厳重な指令」に基づくものであったことが知られる。さらに記事bによって、この前年昭和一四年二月一一日の紀元節、同四月一七日の自治記念日、同一一月三日の明治節と三多摩の市町村が順次完納を達成して表彰され、昭和一五年二月一一日の表彰はむしろ最も遅く完納を達成した一市三二町村を対象としたものであったことがわかる。その市町村名はここにも記されていないが、八王子市(記事中では八市と略記されている)をはじめとする二六町村、島嶼六村であることが知られる。なお、この合計数三三は、図1-31に写っている人数三四より一人少ないのみである。記事cでは小平村長が自腹を切って完納を達成したエピソードが納税完納にかかる納税美談として紹介されているが、類似の記事が他にも見られ、滞納整理が関係者の代納によって進められたことがうかがわれる。また立川町では起債認可に絡んで完納が強要されたとの記載もあって、東京府が起債認可という財政上の権限をちらつかせて、無理やり完納の達成を迫ったことが知られ、これらの新聞記事によって、紀元二千六百年の紀元節に華々しく挙行された表彰式について知ることができるばかりでなく、こうして表彰された完納達成なるものの実態が、府当局からの厳重な指示を受けて、行政担当者自らの負担によってなされたものであり、決して銃後(じゅうご)の府民や税務担当者の意識の高揚(こうよう)等によるものでないことがうかがわれる。