⑤完納賞碗の年代

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「小平村」の文字から
 鈴木遺跡出土の完納賞碗は、そこに見られる文字の分析から、作られた年代が特定できる。まず「小平村」の文字から見ると、すでに述べたように明治二二年に成立した小平村が、町制を施行して小平町に移行したのは昭和一九年の紀元節、二月一一日のことである。したがって下限はこの年月日になろう。

生産者別標示記号から
 糸底の記號「岐434」は、岐阜県陶磁器工業組合連合会の制定した冊子である『生産者別標示記號』によれば土岐津陶磁器工業組合の土岐口に住所のある虎澤善次郎氏に付された番号であることが知られる(沼崎一九九九、土岐津(ときつ)町誌編纂委員会一九九九)。この冊子は現在の岐阜県陶磁器工業協同組合連合会が保存していたものであり、その全文を掲載した『土岐津町誌 史料編』には、「昭和十六年三月岐阜県陶磁器工業組合連合会によって定められた「生産者別標示記号」で、生産者に番号を付して製品を完全に管理下に置いた。」(土岐津町誌編纂委員会一九九九)とあり、記號が付されるようになったのは昭和一六年三月以降のこととされている。しかしこれは、冊子の表紙に「昭和十六年三月」と書かれていることによるものであり、記號が付されるようになった時期はこれを遡る可能性も考える必要があると思われる。

写真資料から
 写真裏面の記載などによれば、納税完納にともなって表彰されたのが昭和一五年二月一一日の紀元節であったとすれば、完納運動が村を挙げて行われたのは、この日までであったと思われる。とするならば、少なくとも昭和一六年には完納賞碗の配布はすでに行われなくなっていたと考える方が自然であろう。そうだとすれば逆に、この資料は記號が付されるようになったのが昭和一六年より遡る可能性を示すものとも言える。

 この資料は第一に、見込みの文字から税金の完納に対して与えられたと思われる「完納賞」なるものそのものか、あるいはそれに付随して与えられた副賞としての賞品と思われるが、この完納賞がどのような場合に出されたのかについては、検討の余地がある。昭和初期における小平村の納税の状況に関しては、『小平町誌』「第五章 第二次大戦と小平」には、「納税にからまる話」として、詳細な記載がある。要約すると、昭和初期の小平村は税の滞納額では東京府下でも屈指(くっし)の存在であった。その原因は第一に大正末から昭和一〇年ごろまでの間、数度に及んだ経済恐慌の結果繭(まゆ)の価格が暴落し、繭の生産に頼っていた当時の小平村に大きな経済的打撃を与えたこと、第二に政友会と民政党という二大政党の対立の余波が小平村にも及んでいたこと、第三に尋常小学校に高等科を併設する問題にその誘致競争がともない、さらに前記の政争が影響したことの三点であり、これらの理由から村税を意識的に滞納するいわゆる滞納運動が広がったことによるという。最も多かった昭和七年には滞納件数は六六〇余であり、滞納額は五万八千円と、同年の村の予算総額五万三千円を上回る額に達していたと言う。
 この時期に、小平で特に納税が奨励された背景には、もちろん町制施行の前提として滞納整理による税金の完納があったことは『小平町誌』の指摘するところではあるが、また日中事変以降の戦局の悪化にともなう戦費の調達という課題とも深くかかわっていたことは間違いない。このことはまた昭和一九年に行われた税制の大改正ともかかわる問題である。小平市域で多くの種類が見られる一連の完納賞碗の、おそらくは最末期の段階の資料に、統制経済の一端を示す生産者別表示記號が見られることは決して偶然ではない。なぜなら、これらはともに第二次世界大戦の遂行という国家の意図の反映に他ならないからある。つまり納税の奨励は、その前段で行われた増税とともに戦費の調達を目的とするものであり、統制経済はもちろん国家総動員法に象徴される国家による全面的な統制=自由の制限に深く関わるものである。言い換えるなら、この完納賞碗は日本という国が日中戦争以降、戦時体制へとその歩みを速めつつあった時期の雄弁な証人であるということができるのであろう。