①統制陶磁器

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 前項でも触れた統制陶磁器は、戦時体制下での物資の統制を目的として行われた各種統制によって、陶磁器生産者が製品に付すことを求められたものであり、碗皿類では糸底に付され、陶磁器生産者の組合名の漢字一文字と、窯毎に与えられた数字とで構成される。漢字は有田の「有」、肥前の「肥」、波佐見(はさみ)の「波」、常滑(とこなめ)の「常」、瀬戸の「瀬」「セ」、岐阜の「岐」、相馬(そうま)の「相」等が知られている。鈴木遺跡の水車関連遺構出土資料の多くは「岐」か「瀬」に数字が添えられたもので、呉須(ごす)等がスタンプされたり、陽刻・陰刻(いんこく)されたりして表現されたものが多い。中には「東洋軒平八」のような文字が加えられた例も存在する。また「品5」と読めるものもわずかであるが存在する。「品」は品野(しなの)であり、現在の愛知県瀬戸市品野であるが、「品」の統制陶磁器の類例はきわめて少ない。鈴木遺跡の出土資料は三点あるが、いずれも数字は5である。「品」が希少であるだけでなく、文字が大きく、手書きで陽刻されている。おそらくは鋳込(いこ)みで成形する際の糸底部分の石膏型の表面に、手書きで文字を彫り込んだものと思われ、三例とも字体が異なるのは、少なくとも三種類以上の型があったことを窺せる。
 前項でも述べたように、統制番号がいつから付されるようになったかは現時点では明らかではないが、その原因となった統制経済への移行は昭和一三年(一九三八)公布の「輸出入品等に関する臨時措置法」に始まり、「石炭配給統制規則」を経て昭和一四年の「価格等統制令」による価格統制に至るものである。したがって、統制経済下で付されるようになった記號の始期は最も遡っても昭和一三年以降に位置づけられ、前項で見たように記號が付されるようになった時期は昭和一三年から昭和一六年の間、おそらくは昭和一四年頃と考えられる。一方、記號の終期は明らかでなく、昭和一八年(一九四三)との見解もあるが、昭和二〇年の敗戦、ないしは経済統制が全面的に解除された昭和二三年とも考えられる。