第一節 遺跡が見つかる

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 昭和四九年度版遺跡地図で小平市の2とされた遺跡は、遺跡名称が八小遺跡、種別は集落跡、所在地は鈴木町一-三五五、三五九、三八四~三八六、四三九、四四〇第八小学校付近、立地は台地縁辺、時代は縄文、奈良平安、遺構は住居跡(平安1)、遺物は縄文土器、石器、土師器(はじき)、現状は学校、宅地、林、地図18、備考昭46加藤有次、山田実調査、とあり、文献は規模とともに空欄となっている。
 しかしこの遺跡地図に先立つこと五年、昭和四四年刊行の雑誌『東京史談』の最終号、菊池山哉(きくちさんさい)先生追悼号には、吉田格(いたる)「小平市第八小学校校庭内遺跡概報-土師式竪穴住居址(たてあなじゅうきょし)-」(以下、『八小概報』と略する)が掲載されている。そこには、この遺跡の発見の経緯について、以下のような記載がある。「…本年一月に小平市立第八小学校に勤務している、鱒渕清之(ますぶちきよゆき)氏が、校庭の片隅にゴミ穴を掘ったところ、土器片らしいものが出たから鑑定してもらいたいと見えた。いずれも土師器の破片であり、発掘現地をあらためて見に行くと、奈良時代の竪穴住居の断面があらわれているので、緊急に調査の必要を感じ、これ以上掘らない様にと学校側に連絡し、…」
 執筆者の吉田格氏は、当時、小金井公園内にあった都立武蔵野郷土館(現在の江戸東京たてもの園の前身)の考古学を担当する主事として勤務しており、考古資料に関心のあった鱒渕清之氏とはかねてから面識があったため、鑑定の依頼が行われたといわれている。