第三節 わかったこと、その後

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 以上の記述は『八小概報』を再構成したものであるが、出土遺物は現在、江戸東京たてもの園にその一部が保管されている。図2-6に示した、ほぼ完形の甑一点と、石製品一点、棒状の鉄製品一点(錆(さび)が進行して砕片状態)の三点のみである。甑は、小平市教育委員会によりレプリカが作成され、鈴木遺跡資料館で展示されている。

図2-6 八小遺跡出土の甑(江戸東京たてもの園 所蔵)

 布目瓦(ぬのめがわら)の出土は、もとよりこの住居に瓦が葺(ふ)かれていたことをあらわすのではなく、発見当時の状況として、たまたまこの住居跡の竃部分を破壊してゴミ穴を掘削したと考えられていることから、おそらくは竃の袖(そで)〔竃の焚(た)き口の左右の部分〕に埋め込まれたか、支脚(しきゃく)〔竃の内部に立てて、上部に架ける甕などを支えるもの。瓦の他、か石や割れた土器、あるいは専用の土器が用いられる〕として用いられたものと考えられる。このことは、この瓦片に焼土が付着していたとされることなどからも窺われる。しかし、一般の住居に葺かれるものではなく、寺院等に用いられる布目瓦が出土したことは、発見当時においても極めて注目され、小金井市の貫井南(ぬくいみなみ)遺跡の調査にともなって、周辺の住民が表採(ひょうさい)資料として同様の布目瓦を所持されていたことから、武蔵国府や武蔵国分寺から貫井南遺跡を経て八小遺跡へ北上するルートが想定される等、八小遺跡が、単なる一住居跡以上の意味をもつものとして位置づけられたとも言われる(肥留間博氏のご教示による)。
 こうしたこともあってか、八小遺跡については昭和四九年度版遺跡地図には東西約二〇〇m、南北約一〇〇mに遺跡の範囲が表示されており、当時この遺跡が複数の住居跡等の遺構からなる集落跡と考えられていたことを物語っている。しかしその後の周辺における確認調査などから、遺跡がさらに面的に広がっていたと考えることは困難な状況で、平成二二年度版遺跡地図では、住居跡の位置が遺跡として表示されているのみである[図0-2]。
 住居跡は発見の翌年の昭和四五年には、小平市史跡第一号に指定され、竪穴住居跡には上屋(うわや)〔上部構造〕の復元が試みられ、昭和五五年と六四年には葺き替えも行われた。しかし、平成一八年には復元された上屋は撤去され、埋め戻されて盛土(もりど)され、内側に常緑の多年草が植えられた石列(いしれつ)で住居跡の形を表示し、二枚の文化財解説用看板によってその性格等の解説がなされている。
 復元された上屋の撤去は老朽化(ろうきゅうか)にともなうものではあるが、また住居跡の上屋に竃が復元されていないことや、貯蔵穴とされた比較的浅い土坑のうちの四か所に主柱穴が設置され、中央の主柱穴と推定された土坑が利用されていないことなど、発掘調査の結果と復元住居の間には、発掘調査の際の所見(しょけん)に対する認識の相違が存在し、そのまま作り直すことには問題があると判断されたこと、さらに復元された上屋が東側の道路の歩道に数十cm突出(とっしゅつ)しており、このため歩道が狭くなって、歩行者の安全な通行を阻害(そがい)していたことなどによるものである。