昭和五三年の国分寺市西元町三丁目で実施された武蔵国分寺関連遺跡第六八次調査で発見された東西両側に側溝をともなう一二m幅の遺構は、翌年、約三〇〇m南の府中市武蔵台一丁目で実施された武蔵国府関連遺跡第一四四次発掘調査でその延長が確認されるに及び道路遺構と考えられるようになった。それ以降、府中、国分寺両市内で相次いで発見され、ほぼ南北に一直線に延びる道路遺構であるとされた。さらに北の群馬県境町矢の原遺跡、牛堀遺跡、埼玉県所沢市東(あずま)の上遺跡でもその延長と考えられる道路遺構が発見された。その後平成七年一〇月に旧国鉄中央鉄道学園跡地の都市計画道路予定地より、延長約三四〇mにわたって発見され、道路遺構の構造や最低でも四時期にわたる変遷がつぶさに確認されることとなった。
当初既知の古代律令(りつりょう)期の官道とみなすことに慎重であった研究者も、他地域の道路遺構との比較から典型的な古代道としての形状を有する、地理的に武蔵国府と上野国との最短路線上に位置する、武蔵国分尼寺の中軸線がこの道路の方位に強く規制されている、武蔵国府の西側境界線がこの道路によって限られている、遺構の築造年代が七世紀第3四半期と考えられる、等多くの点で東山道の支線路である武蔵路とみなすようになった。
このため平成一〇年、一一年の二か年度にわたって国庫補助事業『道路状遺構発掘調査事業』が、東京都教育委員会を主体とし、財団法人古代学研究所に委託して実施されることとなった。この事業では、小平市の他、東村山市、多摩市、町田市内の全二三か所の地点で、トレンチを設定して道路状遺構の探査が実施された。