八小遺跡、鈴木遺跡(回田遺跡)の部分でも触れた昭和四九年度版遺跡地図には、小平市内の遺跡として三か所が登載されており、八小遺跡、鈴木遺跡(回田遺跡)に先だって遺跡ナンバー1が付与された遺跡が存在する[図0-1]。遺跡名の欄は未命名、種別は散布地、所在地は小川町一-九六七付近、立地は台地上、時代は先土器、遺物はポイント、現状は畑、文献番号836、地図17で、規模・遺構・備考欄も空欄となっている。文献番号836は昭和四一年(一九六六)刊行の『北多摩文化財総合調査報告 第二分冊』所収の「北多摩北部地区における考古学上の調査」であり、文末には市町村別に遺跡地名表も掲出されている。執筆者はこの地域を担当した吉田格(いたる)氏で、鈴木遺跡の発見に先行して刊行された考古学的な言及は、いずれもこの吉田氏によるものである。「小平市内においては現在まで確な資料としては小平市小川三番一八八四番地出土の無土器時代の尖頭器のみである。出土地附近の地域は標高八三mあり、ほぼ武蔵野台地の中心であって発見地近くはわずかに窪地となって大雨の際には水が相当たまるとのことであり、かつてに水位の上がった時代に住居も可能であると考えられ、発見者の田月星月氏は近くから石鏃を一〇数年前にはよく拾われたとのことである。尖頭器は果樹園にするためにモモの木を植えた時に黒色土層とローム層の境より発見したものである。実測図はFig.9で、全長一二・〇cm、幅六・一cm、厚さ二cmの大型で、木葉形をし、両面共に押圧剥離によって製作された美麗(びれい)な尖頭器であり、先端・側面は特に細かい剥離がほどこされ、裏面には打瘤の痕が残っているが、このような形態の尖頭器の類例は都内には全然みられなく、関東地方にも類似品はないようである。おそらく無土器時代の終末頃と思われる。」
これが、小平市内において考古資料の出土を報じた最初の言及の全文である。なお、文中で発見者として名前のあげられた「田月星月氏」は、「田中星月氏」の誤りである。