北多摩地域のほぼ中央に

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図1-1
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東京都域の小平市の位置(黒い部分)。淡い黒の部分は23区

 小平(こだいら)市は、東京都域の広がりの中ではほぼ中央北部に位置し、東西九・三キロ、南北三・八キロ、面積は二十平方キロほどの市域を有する自治体である。平成二十四年四月現在で人口十八万四千七百七人(うち外国人登録数は三千九百四十八人)、世帯数は八万二千五百二十八戸となっている。
 北多摩地方を貫通する幹線道路として、北から青梅(おうめ)街道、五日市街道、甲州街道があげられる。そのいずれもがほぼ東西に平行に抜けるが、小平市域には前二者の道路が貫通している。江戸時代、この青梅街道沿いに成立した小川村は、やがて「本村(ほんそん)」と呼ばれ、小平地域の主軸的存在と認識されてきた。
 青梅街道は新宿追分(おいわけ)で甲州街道から分岐し、中野区、杉並区を経て旧北多摩郡地方に入り、田無(たなし)(西東京市)、小平、村山(武蔵村山市)を経て青梅に達する。新宿から青梅まで、この街道を車で行けば、その途中十分余りで走り抜けてしまう地域がこの小平市でもある。東京という地域は、その中心部から多摩地方の山すそまで住宅が切れることなく続いており、小平市はその一画に位置する自治体、あるいは山すそまで連なる住宅の中の一群とも表現できよう。JR新宿駅から西北西に二十三キロほどのところに広がる住宅地帯が小平市である。
 平成二十四年度に刊行された『小平市史 近世編』で詳述されているように、この地の開拓は明暦(めいれき)二年(一六五六)の小川村(当初の小川新田)から始まり、享保(きょうほう)期(一七一六-三六)の新田開発によって小川新田、野中新田与右衛門組、野中新田善左衛門組、鈴木新田、大沼田新田、廻り田新田が拓かれていった。これらの地域は明治二十二年(一八八九)の町村制施行によって小平村として合併した。この村名は、最初に拓かれた小川村の「小」と、この地域の平らな地形条件とを合わせて定められたとされている。
 以下の十一の章で、この地の民俗文化について記していくにあたって、ここでいくつかのことを前提として述べておきたい。多くの自治体史の序章がそうであるように、まずはじめに地域の概観的な説明を述べなければならないのだが、それとともにこの時期に、自治体史の一冊の中に、小平地域の民俗について述べていくことの意味やその姿勢についても少しふれておく必要があろう。以下の章の構成のありかたもそうしたことと無関係ではない以上、まず本章でこの地域と、この地域の「今」についての大まかな概要を示しておきたい。