図1-4 |
市域西部の青梅街道沿いの地割。延宝2年(1674)頃の小川村地割図よりトレースしたもの。この地図には当時あったはずのお鷹道は略されている |
図1-5 |
かつての鈴木新田。これは水車の分布を示す図。番号は水車で、①別当宝寿院 ②鎮守稲荷 ③江戸往来 ④貫井道 ⑤田無村呑水 ⑥北側田用水 ⑦悪水堀 ⑧南側田用水 ⑨江戸往来 ⑩禅宗海岸寺 ⑪海岸寺水車 ⑫吉兵衛水車 江戸後期(年代不詳)と思われる地図よりトレース。なお原図には家ごとに戸主の名が記されているが、この村は旧小川村とはまた違った形態の集落になる(當麻家文書 K-4 23) |
小平に残る石造物については、すでに報告書が刊行されているが(表1-2)、市内には近世以前のものと思われるいくつかの古い石造物が伝わっている。円成院(えんじょういん)には六点の板碑が残っている。そのほとんどは縁泥片岩であり、一点のみ応永(おうえい)九年(一四〇二)の銘があるが、他は年号不詳である。この六点が、なぜ享保十二年(一七二七)に上谷保(かみやほ)村(国立市)から引寺されたというこの寺院に伝わっているのかについての伝承は残っていない。また、小川寺(しょうせんじ)の代々の僧侶の墓地にも卵塔(らんとう)や無縫塔(むほうとう)に並んで、宝篋印塔と五輪塔の残欠が一基の石塔としてまとめられて置かれている(図1-6)。これについての伝承も残っていない。また、東村山市の正福寺の貞和(じょうわ)年間(一三四五~五〇)の碑は、もとは小平市内の石塔が窪にあり、府中の暗闇祭(くらやみまつり)に行った青年たちが、帰路にいたずらで動かしてしまったものを寺が引き取ったと言われているが、これについても詳細は不明である。
表1-2 小平市内の石造物造立年代別一覧 『小平市石造物調査報告書 小平の石造物』(小平市教育委員会 1993年)より。ただし引用にあたり、原表から造立のない時期の元号の欄と平成以降の点数は省略して作成 | |||||||||||||||||||
年号 | 種別 | 馬 頭 観 音 | 観 音 | 庚 申 塔 | 供 養 塔 | 地 蔵 | 六 地 蔵 | 記 念 碑 ・ 忠 魂 碑 | 献 金 碑 ・ 献 納 碑 | 石 燈 籠 | 鳥 居 | 狛 犬 | 狛 狐 | 石 祠 | 手 洗 石 | 社 ・ 寺 号 標 石 | 層 塔 | そ の 他 | 総 計 |
西暦 | |||||||||||||||||||
応永 | 1394~1428 | 1 | 1 | ||||||||||||||||
延宝 | 1673~1680 | 1 | 1 | ||||||||||||||||
天和 | 1681~1683 | 1 | 1 | ||||||||||||||||
元禄 | 1688~1703 | 1 | 1 | ||||||||||||||||
宝永 | 1704~1710 | 1 | 1 | ||||||||||||||||
正徳 | 1711~1715 | 1 | 1 | 2 | |||||||||||||||
享保 | 1716~1735 | 1 | 1 | 3 | 1 | 3 | 1 | 1 | 11 | ||||||||||
元文 | 1736~1740 | 1 | 1 | ||||||||||||||||
寛延 | 1748~1750 | 1 | 1 | 2 | |||||||||||||||
宝暦 | 1751~1763 | 1 | 1 | 2 | 1 | 5 | |||||||||||||
明和 | 1764~1771 | 4 | 2 | 6 | |||||||||||||||
安永 | 1772~1780 | 2 | 2 | 1 | 1 | 6 | |||||||||||||
天明 | 1781~1788 | 1 | 1 | 2 | 1 | 5 | |||||||||||||
寛政 | 1789~1800 | 2 | 1 | 4 | 2 | 1 | 1 | 11 | |||||||||||
文化 | 1804~1817 | 2 | 1 | 3 | 2 | 1 | 1 | 3 | 2 | 1 | 16 | ||||||||
文政 | 1818~1829 | 2 | 1 | 3 | 1 | 7 | |||||||||||||
天保 | 1830~1843 | 2 | 1 | 1 | 2 | 2 | 1 | 9 | |||||||||||
弘化 | 1844~1847 | 3 | 1 | 1 | 1 | 6 | |||||||||||||
嘉永 | 1848~1853 | 2 | 2 | 1 | 2 | 2 | 4 | 2 | 1 | 2 | 18 | ||||||||
安政 | 1854~1859 | 2 | 2 | 2 | 2 | 1 | 1 | 10 | |||||||||||
万延 | 1860~1860 | 1 | 1 | ||||||||||||||||
文久 | 1861~1863 | 2 | 1 | 1 | 4 | ||||||||||||||
元治 | 1864 | 1 | 1 | ||||||||||||||||
慶応 | 1865~1867 | 1 | 1 | 2 | |||||||||||||||
明治 | 1868~1911 | 2 | 1 | 1 | 6 | 1 | 16 | 2 | 1 | 1 | 4 | 3 | 1 | 1 | 40 | ||||
大正 | 1912~1925 | 1 | 12 | 9 | 2 | 4 | 1 | 29 | |||||||||||
昭和 | 1926~1988 | 2 | 1 | 1 | 3 | 3 | 32 | 14 | 13 | 3 | 3 | 2 | 1 | 14 | 5 | 10 | 107 | ||
小計 | 23 | 6 | 12 | 29 | 25 | 10 | 62 | 25 | 37 | 6 | 7 | 4 | 10 | 9 | 16 | 5 | 18 | 304 | |
不明 | 0 | 5 | 0 | 1 | 15 | 1 | 4 | 5 | 15 | 2 | 0 | 1 | 5 | 4 | 0 | 7 | 22 | 87 | |
合計 | 23 | 11 | 12 | 30 | 40 | 11 | 66 | 30 | 52 | 8 | 7 | 5 | 15 | 13 | 16 | 12 | 40 | 391 |
図1-6 |
小川寺歴代住職の墓地。なかに一基、五輪塔と宝篋印塔の部分をあつめたものがある。本文参照(2011.11) |
このほかに、藩政期の新田開発以前の時代の記憶を伝えるものに、市域に一部を残す鎌倉街道や、あるいは第十一章で紹介する地名伝説などのなかに、新田開村以前にかかわる口碑をもつ例があるのだが、以下本稿での記述は、基本的には新田開村以降の民俗事象やその伝承について紹介し考察をすることを前提としたものになる。