近世以前

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 小平について、江戸時代の新田集落地帯との表現を用いた。武蔵野台地は、定住するには水の確保が困難なため、承応三年(一六五四)に玉川上水が開通するまでは村の成立は難しかったこと、また正保国絵図には、村山村(瑞穂(みずほ)町)と田無町の間に村が描かれていないことなどから、小平では開村の嚆矢(こうし)を前述した小川村として、今回刊行の『小平市史』には中世をとりあげてまとめた巻はない。小平に限らず、武蔵野の新田の多くの地域では、幕藩体制期に新田村が成立する以前の時代にこの地で暮らしていた人の実態や足跡をたどり得る資料はきわめて少ない。その数少ない手がかりのひとつが、板碑、宝篋印塔(ほうきょういんとう)、五輪塔といった石造物になろう。
図1-4
図1-4
市域西部の青梅街道沿いの地割。延宝2年(1674)頃の小川村地割図よりトレースしたもの。この地図には当時あったはずのお鷹道は略されている

図1-5
図1-5
かつての鈴木新田。これは水車の分布を示す図。番号は水車で、①別当宝寿院 ②鎮守稲荷 ③江戸往来 ④貫井道 ⑤田無村呑水 ⑥北側田用水 ⑦悪水堀 ⑧南側田用水 ⑨江戸往来 ⑩禅宗海岸寺 ⑪海岸寺水車 ⑫吉兵衛水車 江戸後期(年代不詳)と思われる地図よりトレース。なお原図には家ごとに戸主の名が記されているが、この村は旧小川村とはまた違った形態の集落になる(當麻家文書 K-4 23)

 小平に残る石造物については、すでに報告書が刊行されているが(表1-2)、市内には近世以前のものと思われるいくつかの古い石造物が伝わっている。円成院(えんじょういん)には六点の板碑が残っている。そのほとんどは縁泥片岩であり、一点のみ応永(おうえい)九年(一四〇二)の銘があるが、他は年号不詳である。この六点が、なぜ享保十二年(一七二七)に上谷保(かみやほ)村(国立市)から引寺されたというこの寺院に伝わっているのかについての伝承は残っていない。また、小川寺(しょうせんじ)の代々の僧侶の墓地にも卵塔(らんとう)や無縫塔(むほうとう)に並んで、宝篋印塔と五輪塔の残欠が一基の石塔としてまとめられて置かれている(図1-6)。これについての伝承も残っていない。また、東村山市の正福寺の貞和(じょうわ)年間(一三四五~五〇)の碑は、もとは小平市内の石塔が窪にあり、府中の暗闇祭(くらやみまつり)に行った青年たちが、帰路にいたずらで動かしてしまったものを寺が引き取ったと言われているが、これについても詳細は不明である。
 
表1-2 小平市内の石造物造立年代別一覧
『小平市石造物調査報告書 小平の石造物』(小平市教育委員会 1993年)より。ただし引用にあたり、原表から造立のない時期の元号の欄と平成以降の点数は省略して作成
年号種別







































西暦
応永1394~142811
延宝1673~168011
天和1681~168311
元禄1688~170311
宝永1704~171011
正徳1711~1715112
享保1716~1735113131111
元文1736~174011
寛延1748~1750112
宝暦1751~176311215
明和1764~1771426
安永1772~178022116
天明1781~178811215
寛政1789~180021421111
文化1804~181721321132116
文政1818~182921317
天保1830~18432112219
弘化1844~184731116
嘉永1848~185322122421218
安政1854~185922221110
万延1860~186011
文久1861~18632114
元治186411
慶応1865~1867112
明治1868~19112116116211431140
大正1912~1925112924129
昭和1926~198821133321413332114510107
小計2361229251062253767410916518304
不明0501151451520154072287
合計2311123040116630528751513161240391

図1-6
図1-6
小川寺歴代住職の墓地。なかに一基、五輪塔と宝篋印塔の部分をあつめたものがある。本文参照(2011.11)

 このほかに、藩政期の新田開発以前の時代の記憶を伝えるものに、市域に一部を残す鎌倉街道や、あるいは第十一章で紹介する地名伝説などのなかに、新田開村以前にかかわる口碑をもつ例があるのだが、以下本稿での記述は、基本的には新田開村以降の民俗事象やその伝承について紹介し考察をすることを前提としたものになる。